洋銀(ようぎん)は、銅・ニッケル・亜鉛を主成分とする銀白色の合金群である。英語では nickel silver または German silver、フランス語では maillechort、ドイツ語では Neusilber と呼ぶ。名前に「銀」が入るが、銀を主成分とする貴金属ではない。時計では、輪列を支える地板や受けなどに用いられてきた。地板に用いる洋銀と、銀製のケースや銀めっきは別物である。1 2
組成と性質#
銅と亜鉛を主成分とする黄銅にニッケルを加えた合金と考えると分かりやすいが、洋銀には単一の配合比があるわけではない。例えば米国の銅合金分類 C75200 の公称組成は銅65%、ニッケル18%、亜鉛17%である。別の品種では配合が異なり、加工性などのために他の元素を含むものもある。この数値を個々の時計の地板の分析値として扱うことはできない。2 3
ニッケルを加えると黄銅の黄色が薄まり、銀色に近づく。銅合金の資料は洋銀を、比較的高い強度と良好な耐食性を持つ材料として挙げる。ただし、耐食性は腐食や変色が起こらないという意味ではない。表面の変化は合金の組成や環境に左右される。時計用の材料を選ぶ際も、素材名だけで精度や耐久性を決めることはできず、形状、加工状態、表面処理、使用環境を併せて考える必要がある。2 4
材料の性質は加工状態でも変わる。C75200の例では、銅開発協会の表にある半硬質 H02 の代表的な引張強さは約510 MPaである。これは定められた材料と状態の参考値であって、すべての洋銀や時計部品の実測値ではない。同協会の資料は銅合金の冷間加工による強度と伸びの変化も示している。材料の強さと地板全体の剛性は同じではなく、板の厚さや形も部品の変形に影響する。2
地板と受けの仕事#
機械式時計では、地板が輪列や香箱などを取り付ける基礎となり、その上に取り付ける受けが軸の反対側を支える。軸穴の位置や部品間の距離が適切でなければ、歯車が円滑にかみ合わない。地板の製作では穴の中心を定め、穴あけや切削を行い、仕上げた後に軸受石などを取り付ける。近代の生産ではフライス加工、穴あけ、ねじ切りなどを数値制御加工機で行うこともできる。5
黄銅と洋銀は、加工と機械的性質のバランスが時計部品に適している。時計材料に関する金属学の解説は、切削、研磨、打ち抜きなどの方法を挙げ、鉛を含む場合には切削性に関わると説明する。洋銀だから必ず無処理で使うわけではなく、金めっきやロジウムめっきなどを施す例もある。地板の見た目は合金自体だけでなく、表面処理と装飾の選択にも左右される。4 6
洋銀の地板は調速機そのものではなく、部品の位置関係を保つ構造体である。地板を洋銀に替えたという事実だけから、歩度の改善幅や耐磁性能を数値で断定することはできない。また、外から見える金色の受けが必ず金製であるとも限らない。無処理の洋銀は時間とともに色が変わる場合があり、他方でめっきされた部品には表面に別の金属が存在する。6 7
時計での使用例#
スイスの時計産業を扱う Willy Jeanbourquin の研究は、地板と受けには通常黄銅を使うが、洋銀を使うこともあると記している。これは当時の材料選択の一例であり、洋銀がすべての時計に用いられたという意味ではない。8
A.ランゲ&ゾーネは、地板と受けに洋銀を用い、表面を処理せずに仕上げると説明している。同社によれば、組み立て時の指紋や工具の傷が表面に残り得るため、取り扱いに注意を要する。仮組みして機能を調整した後、一度分解して洗浄・仕上げを行い、改めて組み立てる工程を採る。7
具体例の「1815 UP/DOWN」は、手巻きムーブメント L051.2 に無処理の洋銀製四分の三受けを備える。受けにはグラスヒュッテ・ストライプのような装飾が施され、青焼きねじで固定された金のシャトンとともに裏蓋側から見える。シャトンは軸受石を保持する部品であり、その金と受けの洋銀は別の材料である。同モデルには巻き上げ残量を示す表示があり、メーカーはその機構に遊星歯車を用いると説明する。洋銀はこの表示の動力源ではなく、機械を支える部分の材料である。7 9
19世紀の時計師向け手引書では、時計用洋銀の平均組成を銅60%、ニッケル20%、亜鉛20%と紹介している。C. E. Jacot による同書の記述では、洋銀を地板や受けに使い、香箱や歯車には黄銅を使った。旋削や穴あけは黄銅のほうが速く、摩擦を受ける軸穴には黄銅のブッシュを用いたという。これは当時の著者が伝える加工・摩耗上の経験であり、現代のすべての合金や潤滑条件にそのまま一般化することはできない。10
成立と名称#
銅・ニッケル・亜鉛を含む白色合金は、中国の白銅を指す paktong などの名でヨーロッパにも知られていた。化学史の文献は、18世紀の分析によってその組成が調べられ、1823年にはプロイセンで銀に似た安価な合金を求める懸賞が設けられたと記す。現代の洋銀を、特定の一人が白色銅合金全体を最初に発明した結果とみなすことはできない。11
フランス語の maillechort は、時計文化団体 FHH の解説によると、1820年ごろに合金を開発した Maillot と Chorier の名に由来する。1834年のドイツ語技術誌には Maillot の maillechort の製法が紹介され、銅、亜鉛、ニッケルまたはパクトンのほか鉄・鉛・錫を配合する処方と、フランスの特許が失効したとの記述がある。これは当時紹介された一つの処方であって、現代の全洋銀の定義や特許請求範囲を示すものではない。特許の原公報は確認できておらず、出願日や権利の範囲はここから断定できない。1 12
年表#
- 18世紀:ヨーロッパで中国の白色合金パクトンの組成が分析される。11
- 1820年ごろ:FHH は Maillot と Chorier による maillechort の開発をこの頃としている。1
- 1823年:プロイセンで銀に似た安価な合金を求める懸賞が設けられる。11
- 1834年:ドイツ語技術誌が Maillot の処方とフランス特許について報じる。12
- 1894年:時計師向け手引書が洋銀の組成と地板・受けへの利用を記述する。10
- 現代:洋銀は地板・受けの材料として使われ、無処理の仕上げやめっき仕上げが選択されている。6 9
参考文献#
[1] Fondation de la Haute Horlogerie, “Maillechort,” 時計用語解説, 閲覧2026-10-28。
[2] Copper Development Association, Copper and Copper Alloys: A Guide to Working With Copper and Copper Alloys, pp. 6, 14–16, 閲覧2026-10-28。
[3] Copper Development Association, Wrought Copper Alloys: Nickel Silvers, 閲覧2026-10-28。
[4] Alexandre et Robert Fleurentin, “Importance de la métallurgie dans la haute horlogerie,” Traitements & Matériaux, no. 439, 2016, pp. 14–19, PDF, 特にp. 17、閲覧2026-10-28。
[5] Horopedia, Platine, 「Méthodes de production」、閲覧2026-10-28。
[6] Horopedia, Maillechort, 「Composition et variantes」「Traitements de surface」、閲覧2026-10-28。
[7] A. Lange & Söhne, Twofold Assembly, 閲覧2026-10-28。
[8] Willy Jeanbourquin, La Technique du prix de revient dans l’industrie horlogère, Université de Neuchâtel, 学位論文, p. 21、閲覧2026-10-28。
[9] A. Lange & Söhne, 1815 UP/DOWN, 「Traditional watchmaking artistry」「Movement L051.2」、閲覧2026-10-28。
[10] Claudius Saunier, Henry G. Abbott 改訂・増補, The Watchmakers’ Hand Book, 1894, §112, pp. 100–101, Project Gutenberg, 閲覧2026-10-28。
[11] J. W. Mellor, A Comprehensive Treatise on Inorganic and Theoretical Chemistry, Wellcome Collection所蔵本文, パクトンの歴史を扱う箇所、閲覧2026-10-28。
[12] “Maillot’s Bereitung des Maillechort,” Polytechnisches Journal, vol. 51, 1834, p. 152, BBAW電子版, 閲覧2026-10-28。