ガラス製ひげぜんまい

ガラス製ひげぜんまい

ガラス製ひげぜんまい#

ガラス製ひげぜんまい(glass balance spring、spiral en verre)は、時計の調速器を構成する細いばねを金属の代わりにガラスで作る試みである。19世紀には平らな渦巻きと、円筒に巻いたような立体のらせんが作られた。船舶用クロノメーターの研究者は、金属ばねの磁気や腐食、温度や経年変化の問題に取り組んだ。デントらは材料の均質さと温度による歩度変化を重視したが、ガラスを使えば温度誤差が消えるわけではない。12

細い材料が折れやすそうに見える一方、ばねとして小さな範囲で繰り返し曲げることは可能である。材料の選択だけでなく、形づくり、端の固定、温度補償、長期の歩度試験まで含めて初めて時計の調速器となる。ガラス製の風防や、動力を蓄えるぜんまいとは別の部品である。13

何を調整する部品か#

ひげぜんまいは内端をテンプの軸に、外端を固定部に結ぶ。回転したテンプをばねの弾性が逆方向に戻し、両者が往復振動する。脱進機は歯車から振動系へ力を補い、その振動に応じて歯車を進める。ばねの剛性とテンプの慣性の組合せが振動の速さを決めるため、温度による弾性や寸法の変化は歩度に現れる。3

理想化して、回転角に比例する復元トルクを持つばねと一定の慣性モーメントのテンプを考えると、往復周期は剛性が大きいほど短く、慣性が大きいほど長い。実物では温度による両者の変化や取付け、振幅、脱進機の影響が加わる。したがって、ばね材料の比較だけで時計全体の精度を決めることはできない。

鋼のひげぜんまいは磁化や錆の影響を受けうる。ガラスは強磁性の鋼と異なり磁化の問題を避けられるが、ガラスの種類によって温度への応答は異なる。金属テンプとガラスばねを組み合わせるときも、温度変化に応じた調整が必要になる。ガラスが完全に温度不変であるという意味ではない。12

先行例とアーノルド・デントの試験#

1828年、グラスゴーのジェームズ・スクライムジャーは平面状のガラス製ひげぜんまいを作った。大英博物館に残るその作例は水銀を用いたテンプと組み合わされている。別の流れとして、ロンドンのアーノルド・アンド・デントは1833年4月に、円筒形のガラスばねを組み込んだクロノメーターを発表した。先行する平面ばねがあるため、1833年をガラスばね全般の発明年とは呼べない。1

同社は材料の均質さと、金属ばねの弾性の変化に関心を持った。磁気の実験も並行して行っていたが、同社自身はガラスばねの発見をその磁気実験と直接結び付けていない。当時の粒子の均一性についての説明は歴史上の考え方として読む必要があり、現代の材料科学で証明された原因と同一視できない。1

試験用616号はグリニッジ王立天文台で歩度を測られ、790号は船 Fairy と天文台で試験された。1836年に王立協会へ提出された原稿には船上と天文台での日差表が含まれる。天文台で継続的な温度記録が不足していたことが判明し、後の試験では温度の記録が重視されるようになった。これはガラスばね自体の優劣だけでなく、時計の性能をどの条件で比較するかという問題でもあった。124

デントの展示用クロノメーター1771号は、ガラスの円盤テンプと円筒形ひげぜんまいを備え、温度補償のための金属片を組み合わせていた。異なる金属の膨張を利用して部材を曲げ、質量の位置とテンプの慣性を変えるのが補償の考え方である。ばねとテンプの両方がガラスでも、補償が必要だった。別にパリの工芸院にはブレゲ・ヌヴー4982号に関係するガラスばねが残るが、その部品の製作年代は資料によって確定しない。1

材料、製造と限界#

2017年の大英博物館の非破壊分析は、デントの二つのばね、スクライムジャーの平面ばね、デントのガラス円盤を比較した。デントのばねは鉛を多く含むガラスで、スクライムジャーのばねとデントの円盤はそれとは異なる窓ガラス系の組成に近かった。表面の汚れもあるため、研究者は組成の数値を半定量的なものとして扱っている。すべてのガラスばねが同じ配合だったとは言えない。1

分析ではデントの二つのばねの線に引き延ばした痕跡があり、研究者はガラスを引き、型に巻き付けた可能性を示している。一つはより細く丸く、もう一つは太く平たい。これは現物からの推定であり、製造工程の全容を記録した作業手順書ではない。1

温度だけでなく、作ってからの長期変化も課題だった。デントの試験と、時計師アンソニー・ランドールによる後年のPyrexを用いた研究について、実物分析の論文は、ガラスばねが長期にわたり進み方向へ変化する傾向を報告している。同論文はランドールの長期運転で変化が落ち着いた例も紹介する。これは個別の試験結果であり、どのガラスでも同じ年月で安定するという保証ではない。1

ガラスの種類や形状が異なる作例の比較では、材料や構造を特定し、長期歩度を個別に測る必要がある。1

後の研究と特許#

ランドールは20世紀末からガラスばねを再び製作・試験し、研究成果を2000年と2009年の時計専門誌に発表した。実物研究の論文は、ランドールがガラスばねをクロノメーターに組み込み、長年歩度を測ったことを紹介している。研究と少数の作例が存在することは、大量生産や広範な採用を意味しない。15

ガラス製ひげぜんまいの成形を扱う後年の特許出願WO2016170236A1は、過去の円筒形や平面形のばねを先行技術として挙げ、ガラスの帯を巻いて平面状に成形する方法を提案している。特許文献は提案された製造法の記録であり、それだけで製品への採用や性能の達成を証明するものではない。6

年表#

  • 1828年:スクライムジャーが平面状のガラスばねを製作。1
  • 1833年:アーノルド・アンド・デントが円筒形ガラスばねのクロノメーターを発表。1
  • 1833〜1836年:616号と790号を天文台や船上で試験。1
  • 1836年:アーノルドとデントの論文を王立協会で読み上げ。4
  • 1840年代頃:展示用1771号にガラスのテンプとばねを組み合わせる。1
  • 2000〜2009年:ランドールがガラスばねの製作・試験に関する記事を発表。5
  • 2016年:平面状ガラスばねの製造方法に関する国際出願が公開される。6
  • 2017年:大英博物館で現存するばねとテンプの材料分析が行われる。1

参考文献#

1. Jenny Bulstrode and Andrew Meek, “Edward John Dent’s glass springs, archive and technical analysis combined”, 大英博物館の実物分析と史料研究、pp. 1–18. UCL公開稿(閲覧 2026-10-28)。

2. Jenny Bulstrode, “Riotous assemblage and the materials of regulation”, pp. 15–19. UCL公開稿(閲覧 2026-10-28)。同著者による関連研究。

3. Fondation Haute Horlogerie, “Spiral”(閲覧 2026-10-28)。

4. Royal Society Archives, AP/20/3, “On the application of glass as a substitute for metal balance springs in chronometers”, 1836年、所蔵記述(閲覧 2026-10-28)。

5. Xavier Joseph Theurillat, “Publications / Bibliographie”, Randallの2000年・2009年論文の書誌(閲覧 2026-10-28)。

6. 国際公開特許出願 WO2016170236A1, “Method for manufacturing a hairspring of a timepiece movement”, 2016年公開(閲覧 2026-10-28)。