グラスホッパー脱進機(grasshopper escapement)は、ジョン・ハリソンが18世紀前半に開発した、歯とパレットの滑りを避ける脱進機である。パレットはガンギ車の歯に押されて振動体へ力を伝え、反対側のパレットが次の歯を受ける際に離れる。「バッタ」を意味する名称は、その跳ね上がるような動きに対応する。狙いは、接触面を滑らせる方式で問題になる潤滑油の状態変化を、歩度の不安定要因から取り除くことにあった。1 2
油を使わないことと、時計がどの条件でも正確に動くことは同じではない。この脱進機は振動体へ長い区間にわたって力を加えるため、振り子、駆動力、反動、懸垂装置を組み合わせて考える必要がある。木製の精密クロック、海上時計H1〜H3、現代の数値研究や公開時計には、それぞれ異なる形でこの考え方が現れている。1 2 3 4
何を制御する機構か#
脱進機には、輪列の回転を振動体の周期に結び付ける働きと、失われたエネルギーを振動体へ補給する働きがある。ガンギ車を回す動力は重錘などから来る。振り子が歯車を一方的に回し続けるのではなく、輪列から受ける力と振り子の往復運動が相互に制御し合う。3
グラスホッパーでは、入口と出口の二つのパレット・アームが歯を交互に受ける。各アームは固定された一枚のアンクルの爪ではなく、小さく回転できる。先端のニブが歯先を捕らえ、アームを支持する枠を介して振り子へトルクを伝える。コンポーザー(composer)は、解放されたアームの止まり位置を定め、次に歯を受ける姿勢を用意する部品である。2

図1:動作を示す模式アニメーション。特定の現存時計の寸法図ではない。原作者:Bariton-pop、着色・トリミング:Jahobr。出典:Wikimedia Commonsのファイル説明(原版)。ライセンス:CC BY-SA 3.0。本記事での変更:なし。
一周期の動作#
次は単一支点型の解説に沿う基本的な順序であり、図の左右をすべての変種へ固定的に当てはめるものではない。2
| 段階 | 歯とパレットの動き | 力の伝わり方 |
|---|---|---|
| 捕捉・駆動 | 一方のニブが歯先を受け、接触を保つ | ガンギ車の力がアームと枠を通って振り子へ伝わる |
| 受け渡し | 反対側のニブが、設計された位置で別の歯先に接する | 車に小さな反動が生じ、先に働いていたニブの拘束が解ける |
| 解放・復帰 | 解放されたアームが歯から離れ、コンポーザーで位置決めされる | 新しく捕捉した側が駆動を引き継ぐ |
| 逆側の受け渡し | 往復の反対側で同じ関係が入れ替わる | 輪列を段階的に進めながら振動を維持する |
ここで利用するのは、歯先とニブの接触を保つ静止摩擦である。一般的な滑り接触をなくしても、摩擦という物理現象そのものを消したわけではない。アームの支点にも微小な回転が残る。したがって「完全無摩擦」と表現するより、主要な接触部の滑りと注油への依存を減らした機構と理解する方が正確である。2
反動と自由振動の関係#
反動(recoil)は、振り子が折り返す付近でガンギ車がわずかに逆向きへ動く現象で、受け渡しに関与する。デッドビート脱進機のように車の反動を抑える考え方とも、短い衝撃以外は振動体を自由にする考え方とも異なる。低摩擦であっても、振り子が輪列から完全に切り離されるわけではない。2 3
成立と構造の変種#
油の不安定さに対する解決#
セイコーミュージアムは成立を1720年代とし、H1への採用を説明している。独立した実物の裏付けとして、Science Museum Groupの1728年製ジョン・ジェームズ両ハリソンの長ケース時計には、この脱進機、温度補償用の格子振り子、調整可能なサイクロイド状の懸垂ガイド、巻上げ中の動力維持機構が記録される。脱進機だけを孤立して交換する発明ではなく、精密計時の複数の問題へ同時に取り組んだ設計だった。1 4
成立年を一点に固定することには慎重さが必要である。David Heskinの研究はBrocklesby Parkの塔時計への後付けを初期例として扱うが、現存する型、改造、後世の復元は区別しなければならない。1728年の実物は早期採用例を示すが、それだけで発明の正確な日付や、すべての部品の製作時期を確定するものではない。4 5
| 型 | パレットの支え方 | 読み分ける点 |
|---|---|---|
| 二支点型(twin pivot) | 二本のアームが別々の支点を持つ | 初期のBrocklesby例と、後世の最適化設計を同一視しない |
| 単一支点型(single pivot) | 入口・出口アームが共通の支点を使う | 両側の幾何学的関係がつながる一方、駆動の対称性が自動的に得られるわけではない |
| 連動した二振動体用 | 各パレットが互いに連動する振動体に作用する | H1〜H3の海上時計では、陸上用の振り子をそのまま船に載せたものではない |
分類と配置はHeskinの研究と単一支点型の製作解説による。海上時計での採用は博物館解説とも照合できる。1 2 5
現存品と復元品が伝える材料#
木を使うことは、この機構を粗雑にすることを意味しない。1728年の時計ではオークの地板・歯車と、リグナムバイタおよび真鍮のローラーピニオンが記録されている。一方、王立グリニッジ博物館のZBA0020は、Len Salzerが1988〜1990年に製作した1726年レギュレーターの再構成品である。その真鍮製ガンギ車、オーク製パレット、真鍮製コンポーザーは、具体的な構造を理解する資料になるが、すべてを1726年の原部品の証拠にはできない。4 6
H3の木製パレットも同館に残る。ただしZAA0264の先端は欠損しており、Gouldによる実験的な金属製ニブと鉛の釣合い錘が加えられている。木製という材質情報、原部品の残存範囲、修復・実験で追加された部分を分けて読む必要がある。7
製作では、歯先、ニブの角、アーム支点、コンポーザーの停止位置が一つの受け渡し条件を作る。Heskinの設計研究では、歯数、アーム長、トルクの腕、反動などを関連付けて決めている。模式図を拡大して切り出すだけでは、力の向きや必要な振幅まで保証されない。Rainer Hessmerが2017年に公開した作図ツールも、Guy D. Aydlettの幾何学的説明に基づく設計支援であり、特定の材料や加工法で完成時計の精度を保証するものではない。5 8
精度への効果と限界#
振幅を小さくすればよいとは限らない#
自由な単振り子では、振幅が大きくなると周期が長くなる。点質量、質量のない糸、一定の重力という理想化の下で、小振幅周期を T₀ = 2π√(L/g) とすると、片振幅 A が小さい範囲では次の近似になる。3
L は振り子長(m)、g は重力加速度(m/s²)、T は周期(s)、A はラジアンで表す無次元の片振幅である。これは円弧誤差の近似であり、脱進機が付いた時計全体の歩度式ではない。3
David Ziemkiewiczの数値研究では、駆動・減衰を含むモデルで、円弧誤差と脱進機が与える誤差が部分的に相殺し、駆動力の変化に対して周期が変わりにくい動作点が得られる。ただし、空気抵抗や懸垂部の損失が変化した場合にも同じ相殺が成り立つわけではない。低摩擦、大振幅、反動の有無という一つの指標だけで精度の優劣を決めることはできない。3
時計全体としての条件#
| 要素 | 期待する効果 | 残る制約 |
|---|---|---|
| 滑り接触の回避 | 歯とパレット間の油の状態に依存しにくくする | 支点や他の輪列、汚れ、部品状態の検査は別に必要 |
| 駆動力の管理 | 振動体へ渡す力を安定させる | 受け渡しの幾何学と振り子の損失も影響する |
| 振り子・懸垂装置 | 温度や振幅に伴う周期変化へ対処する | 脱進機だけでは環境変化を補償できない |
王立天文学会由来の「Late/RAS Regulator」にはグラスホッパー脱進機と30秒ごとのルモントワールが併用され、所蔵館は無注油で動く時計として説明する。ハリソンは100日で1秒以内の計時能力を期待したが、本人による最終調整は確認されていない。これは構想上の性能目標であり、この個体が当時その精度を実測したという意味ではない。9
後世の採用と年表#
現代の著名な例は、2008年9月19日に公開されたケンブリッジのコーパス・クロックである。John C. Taylorが設計し、Huxley Bertramが製作した時計は、ハリソンへの敬意を大きな「時を食べる」生物の形で表す。学院の説明はグラスホッパー脱進機の採用と、機械的に光を露出させる表示を伝えている。演出的に進み方を変える作品なので、精密レギュレーターの歩度比較へそのまま利用する例ではない。10 11
| 時期 | 確認できる出来事 | 資料上の注意 |
|---|---|---|
| 1720年代 | ハリソンがグラスホッパー脱進機を開発 | 特定の一年への固定は避ける 1 |
| 1725〜1728年 | ハリソン兄弟が3台の精密長ケース時計を製作。1728年の第三号に採用を確認 | 原初の発明日とは区別 4 |
| H1〜H3の開発期 | 海上時計にも採用 | 陸上用と振動体・配置が異なる 1 2 |
| 18世紀後半 | Late/RAS Regulatorに採用 | 館の本文はH3と同時期、目録欄は1775〜1776年とし、年代の扱いに差がある 9 |
| 1928年 | RAS Regulatorの振り子を復元 | 現在の振り子を原製作部品としない 9 |
| 1988〜1990年 | Salzerが1726年レギュレーターを再構成 | 復元品の製作年 6 |
| 2008年9月 | コーパス・クロック公開 | 精度競争と異なる造形・表示の展開 10 11 |
| 2017年3月 | Hessmerがオンライン作図ツールを公開 | 幾何学設計の現代的な支援 8 |
| 2021年 | Ziemkiewiczが数値解析を発表 | 実物の一律な性能証明ではなく、モデルによる研究 3 |
| 2026年11月の確認時点 | 初期作品、残存パレット、復元時計が公開目録に記録される | 展示・稼働の現況までは目録の存在から断定しない 4 6 7 |
調査上の限界#
この機構の歴史的な重要性は、注油への依存を減らし、振動体と脱進機を一体の計時系として設計した点にある。一方、型ごとの製作寸法、公差、寿命、量産コストを同一条件で比較する値は、ここで扱った資料からは確定できない。特許番号も確認できず、後世の派生時計の権利をハリソンの原機構の特許と同一視しない。2 3 5
また1775年のハリソンの著述と図面MS3972/3については、ここではHeskinの研究・解説を通じた確認であり、原資料全体を直接校合したものではない。原著に帰属する設計条件と、復元製作者の解釈・最適化、現代の数値モデルを区別することが、この脱進機を理解する上で欠かせない。2 5
参考文献#
以下はいずれも2026年11月6日閲覧。
- セイコーミュージアム銀座「Escapement for the Marine Chronometer」。成立年代とH1への採用。
- John ‘Longitude’ Harrison研究サイト「Harrison Single Pivot Grasshopper Escapement」、2013年10月11日。復元製作に伴う機構解説。
- David Ziemkiewicz, “Numerical analysis of grasshopper escapement,” arXiv:2103.14947v1, 2021年3月27日、特にII、V〜VIII節。公開プレプリント本文を使用。
- Science Museum Group「Longcase clock by James and John Harrison」、L2015-3438/Clockmakers Museum No.553。
- David Heskin, Perfecting the Harrison Twin Pivot Grasshopper Escapement, 2009年、特にpp.4–7、18–26、58–60。親著からの抜粋公開版。
- Royal Museums Greenwich「Longcase clock」、ZBA0020。Len Salzerによる再構成品。
- Royal Museums Greenwich「Grasshopper pallet」、ZAA0264、目録上1757年。H3の残存部品。
- Rainer Hessmer「Online Grasshopper Escapement Builder」、2017年3月4日。
- Royal Museums Greenwich「The Late Regulator」、ZAA0596。
- Corpus Christi College「Secrets of the Corpus Clock」。設計者、製作者、機構と表示。
- Corpus Christi College「12th anniversary of the unveiling of the Corpus Clock」。2008年9月19日の公開を照合。