概要と定義#
ナチュラル脱進機(仏:échappement naturel、英:natural escapement)は、二つのガンギ車がテンプへ交互に直接駆動力を与える、アブラアム=ルイ・ブレゲに由来する脱進機である。テンプは、ひげぜんまいと組み合わされて往復回転する調速器であり、振り子とは異なる。テンプの一往復を一周期とすると、各方向の半周期に一回ずつ、合計二回のインパルス(給力)を受ける。1
特徴は「レバーがない」ことではなく、通常の給力がガンギ車からテンプ上の受けへ直接伝わり、レバーを経由しないことにある。停止・解放を担うレバーやデテントは存在する。ブレゲの方式では一方のガンギ車を輪列が駆動し、それに結合した歯車で他方を逆向きに回す。後世には、二つのガンギ車を独立した輪列で駆動する方式も発達した。この二方式は同じではなく、慣性、歯車の遊び、安全機構、ムーブメントの配置に異なる課題を持つ。1 2
「自然」とは、超自然的な精度や摩擦ゼロを意味しない。プラットはブレゲのいう natural lift を、滑りの少ない直接的な給力として説明する。給力面で潤滑油への依存を減らすことが目的であり、軸受けや輪列を含む時計全体の無給油を意味しない。1
発想と成立――何を解決しようとしたのか#
レバーとデテントの長所を組み合わせる#
機械式時計では、主ぜんまいが輪列を回す一方、脱進機がその動きを周期的に停止・解放する。解放のたびに調速器へ失ったエネルギーを補い、調速器の周期を歯車列と針の進みに結び付ける。時計の歩度にとっては、給力の大きさだけでなく、給力がテンプの自由な運動をどれだけ乱すかが問題になる。3
スイスレバー式では、ガンギ歯がアンクルの石の給力面を滑り、アンクルを経てテンプへ力を伝える。往復の双方で給力し、携帯時計に使いやすいが、滑り接触面には潤滑が必要である。デテント式では、ガンギ車がテンプへ直接給力し、給力面の油に頼らずに済む一方、一周期のうち給力するのは一方向だけである。携帯中の動きによる停止と、停止後の再始動は別に対策しなければならない。1
ブレゲが目指したのは、デテントの直接給力と、レバーの両方向給力を併せ持つ機構だった。テンプが脱進機から離れて自由に動く区間を広く取りながら、往復の双方で給力する。この意味で自然脱進機は「自由脱進機」の一種である。二回給力するから歩度が必ず優れる、あるいはすべての設計で自己始動する、という保証まで含む名称ではない。1 2
1789年の着想と1800年代の実物#
ルーヴルのブレゲ展年表は、油なしに機能する自然脱進機を1789年の発明として紹介する。一方、具体的な製作記録が詳しく追えるのは、1802年に注文されたNo.1135など19世紀初頭の時計である。発想を示す年と、脱進機の試作、時計の完成、顧客への販売を区別する必要がある。4 5
No.1135の内蓋には、共和暦10年にブレゲが発明した「第2の自由脱進機」という趣旨の銘がある。共和暦10年は1801年9月から1802年9月に相当し、1789年の着想とこの刻印は同じ出来事の日付を示していない。Christie’sの解説は、手書きノートの写しと工房記録の写しを伴う作品として、その開発を紹介する。ただしこの解説を、台帳原本全頁やブレゲ本人のノート全冊の直接閲覧と同一視することはできない。5
ブレゲの自然脱進機そのものについて、対応する原特許は未同定である。これは未出願や特許不存在の証明ではない。歴史的構造と製作の記録は、現物資料、工房資料を紹介する解説、時計師の技術論文に残る。現代の改良特許は、それぞれの新しい設計についての資料であり、1789年の着想を直接証明する史料とは区別する。1 2 5
ブレゲ方式の構造と一周期の動作#
給力する部品と停止させる部品#
プラットの技術論文の図1では、左側のガンギ車とかなを輪列が駆動し、その軸上の歯車が右側の歯車を回す。二つのガンギ車は同時に動くが、回転方向は逆になる。テンプ側のローラーには、各方向の給力を受ける部位があり、中央のレバー上の停止石がガンギ車を交互に止める。ローラーの振り石がレバーのフォークに入り、テンプ自身が解放時期を決める。1
初期の実物には、車の縁から垂直に立つピンを用いたものがある。しかし、すべての自然脱進機が同じピン構造を持つわけではない。ガンギ車の寸法・歯数、給力面の配置、停止部品のばね、駆動歯車との高さ関係は作品ごとに変化する。垂直ピンは初期の一形式の特徴であり、すべての作品に共通する部品ではない。1 5 7
| 段階 | テンプと停止機構 | 二つのガンギ車 |
|---|---|---|
| 停止中 | テンプは脱進機から離れて補足弧を進み、ひげぜんまいによって戻る | 一方が停止石に当たり、結合によって双方の進みが止まる |
| 解放 | テンプの振り石がフォークを動かし、停止石を歯から退ける | 二車が同時に逆向きへ回り始める |
| 第一方向への給力 | テンプ上の受けが一方の車の給力歯と接触する | 一方の車が直接給力し、レバーは次の停止位置へ移る |
| 次の停止 | テンプは給力部から離れて自由に進む | 反対側が停止され、双方が再び止まる |
| 戻り方向への給力 | 復路で再び解放し、別の受けで給力を受ける | 他方の車が直接給力し、最初の状態へ戻る |
この表は結合二輪方式の役割を整理したもので、各部品が同じ寸法や同じ時刻に動くという精密設計図ではない。重要なのは、給力する車は交代するが、歯車で結ばれた二車の運動は同時に起こる点である。1 3
滑りを減らしても、慣性と解放の損失は残る#
直接給力は、レバーの給力面を滑る接触を省ける。しかしガンギ車を止めてから再び動かすには、車とその結合部を加速するエネルギーが必要である。二車が一緒に動くなら、給力に関与しない側の慣性も負担になる。車を軽くする、小径にする、不要な部品を減らすことは、直接給力という原理とは別の改善になる。1
プラットはブレゲの改良として、従動車を小さくして三歯にした例や、連結歯車の縁に垂直ピンを設けた例を挙げる。車の大きさは左右で同じでなくてもよいが、駆動比と給力歯数の関係が成立しなければ、テンプの往復に合った順序で給力できない。No.1176の12歯と3歯という組合せは、その具体例である。1 7
もう一つの問題は歯隙、すなわち噛み合う歯の間の遊びである。遊びが大きければ、従動側の角位置が安定せず、給力の時期や強さが変わり得る。反対に、遊びをなくす方向へ詰めすぎれば、噛み合いの摩擦が増える。これは「古い旋盤では作れなかった」という単純な問題ではなく、実用に必要な遊びと位置精度の両立という設計・製作・調整上の課題である。1 8
停止の安全と引き込み#
停止石が歯を止めるだけでは、レバーが安全な位置へ確実に保たれるとは限らない。プラットはブレゲ方式の課題に、停止面に引き込み(draw)がないことを挙げる。引き込みは、歯から受ける力がレバーを当たりへ押し付け、テンプが自由に動いている間の停止位置を安定させる働きである。逆に、その力に抗して解放する仕事も必要になる。1
ブレゲの作品にはレバーの当たりにばねを用いた変種があるが、これを「ガンギ車間のバックラッシュをばねで解消した」と説明するのは適切ではない。歯隙に由来する従動車の位置と、レバーを停止位置に保つ安全性は、関連していても別の問題である。No.1176の単一の当たりばねなど、作品の構成を具体的に見る必要がある。7
初期作品、製作者と顧客#
No.1135――約四年の開発を含む小型リピーター#
No.1135は、インファンタード公爵が1802年3月23日に注文した、自然脱進機と四半刻リピーターを備える時計である。Christie’sの作品記録では直径42mm、金の文字盤、三腕の二金属補償テンプ、パラシュート支持、青焼き鋼のひげぜんまいを持つ。ガンギ車二枚、回転するデテント、テンプは着脱可能な独立台座へ載る。この台座は繊細な部品を組み立て、輪列との噛み合い深さを調整するうえでも意味がある。5
脱進機職人シャルル・ベルノーダが最初の脱進機を1803年3月に納め、1804年4月、1805年9月と12月に変更を施したとされる。時計は1806年1月に公爵へ送られ、販売額は4,200フランだった。注文から納品まで約四年を要した開発例であり、完成品が存在する以上、自然脱進機を「理論だけで実物にはならなかった」とすることはできない。5
ただし販売日については、同一カタログの見出しが1月13日、解説の一部が1月16日、発送が1月12日と記すため、日単位の出来事は資料内部で一致しない。月単位の1806年1月を確実な範囲として扱える。1837年12月には別の持主が清掃・修理のため工房へ戻したという記録が紹介されるが、その間の所有移転は不明である。5
No.1711――試作の順序と販売の順序は異なる#
No.1711は二香箱を備える触読時計で、初期開発群の二番目として紹介される。エボーシュはブノワから1804年11月、ケースはタヴェルニエから同年12月、脱進機はケールホフから12月26日に納められ、ベルノーダが1805年2月12日に仕上げを行ったという。ガラコフへの販売は1805年9月5日、3,360フランであり、No.1135より先に販売された。6
この二つの時計は「最初に開発された作品」と「最初に顧客へ売られた作品」の違いを示す。No.1711は1806年5月に買い戻され、2099へ番号を変更して再販売された。再販売日は同じ資料の表題が7月31日、本文が6月14日と異なるため、1806年の再販売という範囲を越えて一つの日付へ確定できない。資料は寸法にも45mmと42mmの記載差があり、このカタログだけでは現物の寸法も確定しない。6
No.1176――トゥールビヨンとの組合せ#
No.1176は1809年2月12日、サンクトペテルブルクの代理人モローを通じ、ポトツキ伯爵へ4,600フランで売られた。四分で一回転するトゥールビヨン内に、12歯と3歯の二つのガンギ車、単一の当たりばねを持つレバー、三腕の二金属補償テンプを収める。振動数は毎時21,600振動、すなわち3Hz。巻上げ中の動力維持を備えるフュゼ、35時間の残量表示、二つの秒表示、キャリッジを止める操作も記録される。7
この作品は、自然脱進機、姿勢に伴う誤差を平均化するトゥールビヨン、主ぜんまいのトルク変化に対処するフュゼを組み合わせたものだ。それぞれの役割を自然脱進機の効果へまとめて帰属させてはいけない。またブレゲのトゥールビヨンにはロバンやデテントなど別の脱進機もあり、1808年以降の高精度時計がすべて自然脱進機になったわけではない。7
製作総数は資料の数え方によって変わる。現物カタログは「約20個の時計」や、時計以外の航海時計・旅時計も含む「30例未満」と記し、公開記録で説明される初期四例・後期八例を分ける。これは全台帳を数えた同一の総数ではない。したがって、約20という概数、既知の現存・公刊例、全種類の製作数を区別し、一つの確定値や「全16点の後期系列」として扱わない。5 6 7
二輪という外見を越えて――後世の設計#
ファソルトの二重車は役割が違う#
米国のチャールズ・ファソルトは1859年2月1日の米国特許22,791号で、直線レバーと補助的な鉤の配置を説明し、1865年3月7日の46,652号でそれを改良した。後者は大小の車を同軸へ置くが、小さい車はレバーを通して給力し、大きい車は停止石と組み合わせて停止を担う。明細書は、一方の半周期に給力し、他方はテンプの運動量とひげぜんまいによって進むと明記する。9 10
したがって、二つの車が逆向きのテンプへ直接交互に給力するブレゲ方式とは異なる。二輪、潤滑低減という共通の課題はあるが、二つの車が何をするかが分類上の決め手になる。特許が述べる長期精度や衝撃への強さも、発明者の効用の主張であり、比較試験の測定値ではない。10
ダニエルズ――結合をやめて独立二輪列へ#
1970年代、ジョージ・ダニエルズは各ガンギ車を別の輪列で駆動し、車同士の噛み合いをなくす独立二重ガンギ車脱進機を開発した。これにより、ブレゲ方式の結合歯車の遊びを避け、二車を同時ではなく交互に動かせる。停止石には引き込みを設け、自由運動中の安全性も確保する。給力は二つの車からテンプの受けへ直接行われる。1
代表作品のスペース・トラベラーは1982年頃の時計で、平均太陽時と恒星時を二輪列で示し、クロノグラフなども備える。「独立二輪方式が1970年代に研究された」ことと「スペース・トラベラーが完成した」ことは別の年表項目である。作品の公式解説には数値の単位に不整合があり、恒星時換算の誤差と時計全体の実測精度は異なる尺度である。11
独立二輪列は二つの動力経路を必要とし、配置と調整の仕事を増やす。一方、腕時計として不可能な方式ではない。チャールズ・フロッドシャムの現行製品は、二輪列、毎時21,600振動、36時間持続の手巻き腕時計としてこの系譜を実装する。専用耐震機構、フリースプラング・テンプ、残量機構に組み込まれたテンプのブレーキを備える。特定の課題への一つの設計を、方式全体の永久的な不可能性としないことが重要である。12
プラット――単輪列のトゥールビヨンで交互に動かす#
デレク・プラットの1997年作品は、ブレゲの噛み合う二車を高精度に複製しただけの時計ではない。トゥールビヨンの回転によって二つのかなは同時に動くが、各かなとガンギ車の間へ小さなばねを介在させ、車をかなから独立に動けるようにした。一方の車が蓄えたばねの力でテンプへ給力する間、他方のばねを巻き直し、次の半周期で役割を交代する。1
このために、内歯を持つ外側の固定四番車と、通常の外歯を持つ内側の固定四番車を設けた。二つのかながキャリッジ内で逆向きに回り、各ガンギ車は給力と、相手側ばねの巻直しを制御する役割を交代する。単一輪列から二方向の近い給力を得つつ、輪列全体を一給力ごとに始動・停止させる慣性から切り離す設計である。1
プラットは20倍の図面と紙模型を用い、ピンで部品を位置決めし、ゴムひもで力を与えて動作を検討した。これは複雑な給力・巻直しの順序を金属加工の前に確かめる工程だった。本人の論文は、1996年に金属部品の製作へ進み、1997年3月末の競技応募期限までに時計を完成したと述べる。またフロッドシャムとの2004年5月の議論、九か月以内の腕時計試作、2008年6月の三つの量産前ムーブメントの発表を記録する。この経緯は、図面上の提案、動く試作、商品化を分けて追える例である。1 12
現代の材料、加工と採用例#
フリーク――慣性を小さくするシリコン#
ユリス・ナルダンのフリークは2001年に発表され、ルートヴィヒ・エクスリンのDual Direct Escapementに二つのシリコン製車を採用した。メーカーの回顧は、従来材料では二輪のエネルギー消費が課題となり、ピエール・ギガックスがシリコンを提案したとする。プラットも2009年、プラズマ加工による軽い車で慣性へ対処した、ブレゲ方式の復活と説明する。1 13
ここでシリコンは、単に電子時計から借りた名前ではなく、微小な機械部品の材料である。軽量化と微細な形状を作る製法が、加速・停止する車を小さな動力で動かす設計に役立つ。メーカーはシリコン部品を持つ最初の自然脱進機腕時計として位置付けるが、二輪の結合、停止、給力の調整が素材だけで不要になるわけではない。1 13
ローラン・フェリエ――結合二輪を維持する#
ローラン・フェリエは2012年、マイクロローター付き自動巻きのFBN229.01を発表した。2024年の公式技術解説は、駆動車と従動車を非対称に配置し、歯形と噛み合いを調整して、必要な遊びを残しながら歯隙を減らしたと説明する。停止レバーとテンプ上のダブルローラーにはシリコンを用いる。8
材料をすべて「シリコン製の脱進機」とまとめると、どの部品が何で作られるのかが見えなくなる。例えばClassic TravellerのLF230.02の公式仕様では、パレットレバーはシリコン、ガンギ車はLIGA技術で作るニッケル・リン合金である。二車は別輪列ではなく結合し、テンプへ一周期二回の直接給力を行う。LF230.02は3Hz、72時間持続であるが、この持続時間は香箱、巻上げ、輪列を含むムーブメント全体の仕様であり、脱進機単体の効率測定ではない。14
自然脱進機はブランドの全モデルに共通するわけではない。Sport Autoの公式開発説明は、最初の二重ひげトゥールビヨン、自然脱進機、その後の3Hzレバー、4Hzレバーを区別する。採用を調べる際はブランド名ではなくキャリバーとモデルの組合せを確認する必要がある。15
ヴティライネン――2011年のキャリバー28#
カリ・ヴティライネンの工房年史は、二つのガンギ車から直接給力する自社キャリバー28の発表を2011年と記す。Vingt-8は単なる試作名ではなく、このムーブメントを用いる製品系列として展開された。工房の最新案内では、そのムーブメントと関連モデルの受注を2025年12月31日で終えるとしている。ただし、この受注終了案内は導入年を2008年と記しており、工房年史の2011年と一致しない。Sotheby’sの製品カタログも、工房年史と同じ2011年バーゼルワールドでの発表を記す。発表年の相違と、2025年末の受注終了は別の情報である。16 17 22
二輪直接給力は、その車同士の連結、停止石、安全部品の配置まで一律であることを意味しない。メーカーが公開する同系列の説明をもって、他社のキャリバーの歯数、材料や効率へ拡張することはできない。自然脱進機という系譜の名称と、各時計師の具体的な機構名を併記するのが適切である。16
F.P.ジュルヌ――EBHPの原特許が示す動作#
2012年のChronomètre Optimumは、二香箱、1秒レモントワール、EBHP(高性能二軸脱進機)を組み合わせる。二香箱は並列に接続されるが、そのことだけで二つの独立輪列を意味しない。EBHPの原仏語特許EP2487546A1は、二つのガンギ車の間に結合歯車を置き、第二車を第一車から駆動する実施例を記す。メーカー表記のEP11405210.3は、この公報に対応する出願番号である。3 18
公報の図2から4の動作は、次のように整理できる。第一車がローラー上の給力石へ給力した後、レバーが第二車を止める。テンプが補足弧を進んで戻り、振り石がフォークを動かすと両車が解放される。今度は第二車の歯がもう一つの給力石へ直接給力し、第一車が停止石に当たる。両車は機械的に結合するため、一方の停止が他方も止める。3
自己始動は「二輪だから」という説明では足りない。この公報ではテンプの休止位置に相当する図3で、停止石がガンギ歯と干渉しない配置を示す。香箱を巻くと車が進んで最初の給力を与え、振動を始められる。またダブルローラーと剣先の関係を含み、給力石の角度やレバーの振り角、解放時の反跳を具体的な実施例として示す。これらを全ての自然脱進機に共通する数値とはしない。3
メーカー資料は、キャリバー1510を3Hz、70時間持続とし、給力面の無給油、チタン製の車と軸、長時間の振り角維持を掲げる。しかし資料中には振り角の維持を50時間とする説明と、レモントワールによる最初の45時間とする説明がある。測定条件も一律ではないため、時計全体の組合せがもたらすメーカーの性能主張として扱い、自然脱進機単体が50時間の歩度不変を保証すると解釈しない。18
レデラー――独立二輪列と二つの定力装置#
ベルンハルト・レデラーのCentral Impulse Chronometerは、2020年9月の構想発表と、2021年の最初の製品系列を区別できる。受賞は2021年GPHGのInnovation Prizeである。独立した二つの輪列は各自の香箱と10秒レモントワールを持ち、二つのガンギ車が一つのテンプへ交互に給力する。結合歯車の遊びを詰めるフェリエやジュルヌとは、動力経路そのものが異なる。19 20
2023年の公式資料は、試作中に持続時間の終わりで振り角がわずかに増える問題を述べる。主ぜんまいのトルクが下がると、レモントワールの解放に抵抗する力も変わるためで、巻直し機構を直歯車と二腕の部品へ変更したとする。「定力装置を付ければ、それ以降の機構に変動はない」という理解では、この改良の意味を説明できない。蓄えるばねだけでなく、それを巻き直し解放する接触の仕事も問題になる。19
同資料は軽量な部品、中央停止石の凹面、給力の幾何学、専用計測と高速撮影も説明する。これはメーカーによる開発報告であり、振り角変化を測定できないという主張を、全温度・全姿勢・全使用条件で誤差ゼロという意味へ拡張できない。2024年4月には39mmのCIC 39が発表され、GPHGの製品記録は3Hz、42時間持続とする。19 21
CICの具体的な給力・停止構造に対応する原特許は未同定である。レデラー名義の特許であっても、実製品への採用が未確認なら、CICの権利範囲を特定する根拠にはならない。上記の構成と改良は、メーカー自身による開発記録に基づく。19
製作・性能・保守をどう評価するか#
精密加工は形状だけでなく組立の関係を作る#
二輪直接給力では、各車の軸間距離、給力石の位置、停止深さ、フォークと振り石の関係、歯車の位相が動作を決める。加工精度だけを高めても、互いの位置と順序が合わなければ動かない。初期の着脱台座、フェリエの非対称配置、ジュルヌ特許の角度位置決めは、異なる時代の同じ実用課題への回答と読める。5 8 3
近年の例として、モントル・ブレゲのEP4053643B1は2021年の優先権に基づき、2022年に出願公開、2023年に登録された自然脱進機の特許である。二つの車を同じ平面へ置き、一段の歯形に噛み合いと直接給力の双方を担わせ、レバーの軸を別位置へ置く。明細書は薄型化だけでなく、停止深さを調整するときの部品へのアクセスを課題として挙げる。単に「さらに精密な歯車」という改良ではない。2
特許は、可能な構成と発明者が主張する利点を示す。一方で、その登録日から特定製品の発売日を推定したり、公報の実施例をそのまま販売品の材質・仕様とみなしたりはできない。EP4053643B1の公開設計と特定の販売品との対応は、この公報だけでは確定しない。2
効率と歩度、振り角は別の尺度#
給力面の滑りを減らすことは、同じ動力からテンプへ届く仕事を増やす可能性がある。しかし効率には、車の加速、停止と解放、歯車の噛み合い、軸受けの摩擦も関わる。二回の直接給力をすることだけから「スイスレバーの何倍」と計算できない。各資料の効率値を比べるには、入力と出力をどこで測るか、振動数、部品の慣性、油と温度、テンプの振り角などの試験条件が必要である。1 8
また、振り角が安定することと、歩度が一定であることも同じではない。歩度にはひげぜんまいの等時性、温度、重心、姿勢、磁気、給力が加わる位相などが関わる。二つの香箱やレモントワール、トゥールビヨンを持つ作品の成績を、自然脱進機だけの効果に切り分けるには、比較できる条件をそろえた試験が必要になる。3 18 19
自己始動、低振り角での停止、外部衝撃での誤解放も、両方向給力という原理から自動的には解決しない。ジュルヌの休止位置、ダブルローラーの安全、フロッドシャムの耐震と残量ブレーキは、それぞれ実用条件を作る追加設計である。無給油という名称も「メンテナンス不要」とは異なり、軸受け、香箱、輪列、ケースの防水や摩耗は別に保守する。3 12 18
普及と技術的な意義#
自然脱進機は、スイスレバーを一律に置き換える機構にはなっていない。フェリエの公式解説も、正常に動かすための時間と熟練した調整が大量生産を難しくすると述べる。一方、シリコンを使う結合二輪、伝統材料のEBHP、独立二輪列、単輪列と二ばねを組み合わせるプラットの方式など、異なる解決を比較する価値がある。8 3 1
この技術史が示すのは、直接給力という有望な原理を、安定した停止、歯車の遊び、慣性、作りやすさ、修理と調整へ結び付ける仕事である。ブレゲの実物から現代の製品までを通して見ると、発明の着想と実用化の間にあるのは単なる時間の遅れではなく、どの損失と不安定さを、どの部品で処理するかという設計の積み重ねである。
年表#
| 年月 | 出来事と資料の範囲 |
|---|---|
| 18世紀後半 | レバーの両方向給力とデテントの直接給力が、ブレゲの構想の技術的な背景となる。1 |
| 1789年 | ルーヴルの年表が、油なしに機能する自然脱進機の発明を置く。4 |
| 1802年3月 | インファンタード公爵がNo.1135を注文。内蓋の共和暦10年の発明銘はこの開発期に対応する。5 |
| 1803年3月 | ベルノーダがNo.1135の最初の脱進機を納める。1804年4月、1805年9月・12月に改良。5 |
| 1804年11–12月 | No.1711のエボーシュ、ケース、脱進機が工房へ納められる。6 |
| 1805年2月・9月 | No.1711の仕上げ、ガラコフへの販売。開発第2例がNo.1135より先に売られる。6 |
| 1806年1月 | No.1135を発送・販売。同一資料の月内の日付は一致しない。5 |
| 1806年5月以後 | No.1711を買戻し、2099へ再採番して再販売。再販売日の記載に差がある。6 |
| 1806年11月–1809年2月 | No.1176の文字盤納品、仕上げ工程、ポトツキ伯爵への販売。四分トゥールビヨンと12歯・3歯の自然脱進機。7 |
| 1819年・1822年 | 例としてNo.2483、No.1918の自然脱進機付き四分トゥールビヨンが販売される。7 |
| 1837年12月 | No.1135が清掃・修理のためブレゲ工房へ戻る。5 |
| 1859年2月 | ファソルトの米国特許22,791号。ブレゲ方式とは給力経路が異なるレバー機構。9 |
| 1865年3月 | 同46,652号。給力と停止を大小の同軸車で分担する改良。10 |
| 1970年代 | ダニエルズが独立二重ガンギ車方式を開発。1 |
| 1982年頃 | スペース・トラベラー。平均太陽時と恒星時の二表示を備える。11 |
| 1996年–1997年3月 | プラットが単輪列・二レモントワール・独立二輪のトゥールビヨンを製作。1 |
| 2001年 | フリーク発表。Dual Direct Escapementにシリコン製車を用いる。13 |
| 2004年5月–2008年6月 | プラットとフロッドシャムの議論、九か月以内の試作、三つの量産前ムーブメントの発表。1 |
| 2009年3月 | プラットが二輪脱進機の系譜と自身の製作を原著論文で説明する。1 |
| 2011年 | ヴティライネンが直接給力のキャリバー28を発表。16 |
| 2011年2月・2012年8月 | ジュルヌEBHPの出願とEP2487546A1の公開。出願番号と公報番号を区別する。3 |
| 2012年 | フェリエFBN229.01の発表。10月にはジュルヌがChronomètre Optimumを説明する。8 18 |
| 2020年9月–2021年 | レデラーCICの構想発表、製品系列、GPHG Innovation Prize。19 20 |
| 2021年–2023年11月 | ブレゲの新しい自然脱進機特許の優先権、2022年公開、EP4053643B1登録。特定製品への採用証明とは別。2 |
| 2023年8月 | レデラーが44mmの第3・第4系列と、巻直し機構の改良を説明する。19 |
| 2024年4月・7月 | CIC 39の発表。フェリエが自然脱進機の公式技術解説を公開。21 8 |
| 2025年12月 | ヴティライネンがキャリバーVingt-8と関連モデルの受注終了日を設定する。17 |
| 2026年10月の公開情報 | フェリエ、ジュルヌ、フロッドシャム、レデラーの公式資料で、モデルごとに異なる二輪方式を確認できる。すべてを同じ材料・同じ動力構成とはしない。12 14 18 19 |
参考文献#
以下の閲覧日はすべて2026年10月14日。特許は原明細書、プラット論文は製作者本人の原著、メーカー資料は当事者の説明、オークションの歴史解説は現物・台帳の写しに基づく二次的な解説として区別する。
Derek Pratt, In Breguet’s Footsteps…, Horological Journal, 2009年3月、pp.106–110。図1–3、5–8、11と本文。p.109の欄外には2008年との印字があるが、表紙・他頁は2009年3月。
Alain Zaugg / Montres Breguet S.A., EP4053643B1, Échappement naturel pour mouvement d’horlogerie…, 2023年11月29日登録公報。原仏語明細書、特に[0001]–[0010]、図1–2。
François-Paul Journe / Montres Journe S.A., EP2487546A1, Échappement bi-axial à haute performance, soit EBHP, 2012年8月15日公開。出願2011年2月11日、EP11405210.3。原仏語の構成・一周期の動作・自己始動説明、図1–6。
Musée du Louvre, ブレゲ展・発明年表, 2009年展覧会資料。1789年の項。
Christie’s, Breguet No.1135, 2014年カタログ、lot393。現物仕様、注文・製作・売買と台座、ノート・工房記録の写しの紹介。
Christie’s, Breguet No.1711, 2024年カタログ、lot88。現物仕様、工房各担当、売買・再採番。表題/本文の日付・寸法に相違あり。
Christie’s, Breguet No.1176, 2014年カタログ、lot294。12歯・3歯、当たりばね、フュゼ、四分トゥールビヨン、1809年販売、他の四分作品一覧。
Laurent Ferrier, An in Depth Look at our Natural Escapement, 2024年7月8日。2012年の発表、結合二輪、歯隙、非対称配置、シリコン部品、調整。ブレゲの1802年「完成」という回顧は、No.1135の注文から1806年の納品へ至る製作記録とは異なる年代づけである。
Charles Fasoldt, US22791A, Escapement for timekeepers, 1859年2月1日。原明細書と図1–3。
Charles Fasoldt, US46652A, Improvement in chronometer-escapements, 1865年3月7日。原明細書と図1–4、1859年特許の参照と一方向給力。
George Daniels公式サイト, The Space Traveller, 年記1982年頃。作品と独立二輪、平均太陽時・恒星時。換算値には単位の不整合があり、作品の構成と精度値の確度は異なる。
Charles Frodsham & Co., The Double Impulse Chronometer Wristwatch, 公開製品説明。二輪列、耐震機構、21,600振動/時、36時間、残量ブレーキ。
Ulysse Nardin, Ulysse Classics: Freak 2001, 公開回顧。エクスリンのDual Direct Escapement、ギガックスとシリコン車の導入。
Laurent Ferrier, Classic Traveller – Black Dial, 公式製品仕様。LF230.02の給力方式、シリコンレバー、ニッケル・リン車/LIGA、3Hz、72時間。
Laurent Ferrier, Introducing the new Sport Auto, 2022年。開発者説明中の四種類のキャリバーと脱進機の区別。
Voutilainen, Manufacture, 工房公式年史、2011年のキャリバー28発表。
Voutilainen, The Ultimate Vingt-8 – 28MPR, 公式案内。2025年12月31日の受注終了。
F.P.Journe, Chronomètre Optimum日本語公式資料, 本人説明2012年10月27日、公開ファイル2020年。pp.1–3、EBHP、レモントワール、性能主張と技術仕様。
Lederer Watches, Geneva Watch Days August 2023 – Press Kit, 2023年8月資料、現在の配布ファイル。初発表と製品系列、独立輪列、10秒レモントワール、巻直し改良と計測を説明。
GPHG, Central Impulse Chronometer, 2021年Innovation Prize記録。
GPHG, Central Impulse Chronometer 39, 2024年応募製品記録。発売2024年4月、キャリバー/製品仕様。説明本文は応募者側の情報であり、賞の審査結果とは区別。
Sotheby’s, Voutilainen Vingt-8, A pink gold wristwatch, Circa 2011, 2021年12月9日、lot139。2011年バーゼルワールド発表、キャリバー28-033、付属証明書2012年7月17日。