フィリップ精密レギュレーター

フィリップ精密レギュレーター

緩急針を細かく動かすための機構#

フィリップ精密レギュレーター(Philippe precision regulator、régulateur de précision)は、ジャン・アドリアン・フィリップの名に結び付く時計の歩度微調整機構である。テンプ受け上の緩急針を、小さな円盤やカムの回転によって細かく動かし、進み・遅れを調整する。パテック・フィリップの博物館カタログと公式年表は、その発明・特許を1881年に置く。1 2

ここでいうレギュレーターは、時・分・秒を別々の軸に表示する文字盤形式や、工房の基準時計という意味ではない。また、ひげぜんまいの端末曲線を理論的に研究した数学者Édouard Phillipsとも別である。フィリップはJean Adrien Philippeで、綴りも人物も異なる。

成立と特許の位置付け#

緩急針式の時計では、ひげぜんまいの外側を通すピンの位置を変え、振動に働く長さを変化させる。指針を直接押すだけでは、狙った位置を少し通り過ぎたり、戻し過ぎたりすることがある。微調整機構は、人が扱いやすい比較的大きな操作を、緩急針の小さい変位へ変えるためのものとなる。

フィリップは鍵なし巻上げ、主ぜんまいの滑りばねなどを開発した時計師で、精密レギュレーターも個々の部品の改良の一つだった。博物館資料は、20世紀初頭に改良型がChronometro Gondolo系列などへ採用されたと説明する。1

Christie’sの実物解説は、1881年のフランス特許番号を142376とする。Antiquorumの別個体カタログは1881年4月16日という日付を記載する。ただし特許原文の出願・交付・公開の各記録がここで揃うわけではなく、この日をすべての法的手続の日付として一般化できない。初採用時計の個体番号も、これらの記録からは確定しない。3 4

部品と動作#

円盤の溝と緩急針のピン#

Christie’sは1881年の発明に関わる構成として、表面にらせん状の溝を設けた円盤と、緩急針の尾部から下へ出る円錐状ピンを説明する。円盤はテンプ受けのねじ周囲に置かれ、ピンが溝へ入る。ピンの圧力は円盤の保持にも関わる。3

この説明から読み取れる基本は、円盤の回転を、溝に従うピンの移動へ変換することである。緩急針はテンプの軸を中心として動くため、尾部の変位がピンを持つ側の角度変化へ伝わる。円盤を回す操作量と、ひげぜんまいに接する緩急ピンの変位量は同じではない。

ただし公開解説は、原特許図の部品番号や溝の厳密な形を示していない。らせんをアルキメデス螺旋と断定したり、一回転で何秒の日差が変わるかを算出したりする根拠にはならない。円盤中心、緩急針の回転中心、ピンの位置関係が分からなければ、正確な運動学モデルも決められない。

改良型の偏心カム#

1909年製の実物を扱うChristie’sは、その時計の調整を偏心したsnail cam、またはcam wheelによるものとし、1881年の発明の改良型と区別する。別のGondolo個体では、緩急針、スワンネックばね、微調整装置が一組として記載される。3 4

一般にカムが緩急針の尾部を押し、ばねが反対方向から追従させれば、カムを戻す操作でも接触を維持できる。ばねは機械の位置を保つための予圧を与える。しかし、溝に入るピンで案内する方式と、外周カムへばねで押し付ける方式は同じ部品構成ではない。「フィリップ式」という名称だけで、現存機すべてに同じばね、溝、ねじを想定することはできない。

歩度が変わる原理#

有効長と周期#

ひげぜんまいを理想的な線形ねじりばね、テンプを一定の慣性モーメントを持つ回転体として近似すると、周期は次のように表せる。

\[ T=2\pi\sqrt{\frac{I}{\kappa}},\qquad \kappa\simeq\frac{Ebt^3}{12L} \]

Tは一往復の周期(秒)、Iはテンプの慣性モーメント(kg m²)、κは回転角に対するばね定数(N m/rad)、Eはヤング率(Pa)、bはばね幅、tは厚さ、Lは有効長(いずれもm)である。後式は一様な長方形断面の細い帯が純曲げで働くという説明用モデルで、フィリップの特許に記された式ではない。

この近似では、ほかの量が一定ならTはLの平方根に比例する。有効長を短くすれば周期は短くなり、時計は進む側へ、長くすれば遅れる側へ変わる。微小な変化について、相対周波数変化は次の関係になる。

\[ \frac{\Delta f}{f}\simeq-\frac{1}{2}\frac{\Delta L}{L} \]

たとえば有効長を0.01%短くする理想モデルでは、周波数は約0.005%増し、一日86400秒に対して約4.32秒進む計算になる。これは感度の大きさを示す計算例であり、現存時計の実測値でも、カムの一目盛りの仕様でもない。

調整の細かさと実際の精度#

ひげぜんまいは、実際には緩急ピンの間を完全に固定された梁として働くわけではない。ピンの隙間、接触位置、振幅、端末曲線、ぜんまいの偏心、姿勢、脱進機の力が作用する。理想式は短くすれば進むという方向を説明するが、どの姿勢でも同じ日差になるという保証にはならない。

機械的に小さい変位を再現できることと、時計が温度・姿勢・巻上げ量に対して安定することは別の性能である。微調整は主として平均歩度を合わせる工程を助ける。テンプの釣合い、温度補償、振幅依存性、脱進機の調整、潤滑の劣化を円盤だけで解決するものではない。

材料、加工、調整の限界#

実物カタログは緩急針とスワンネックばねの組合せを記載するが、1881年型の合金組成、熱処理、公差は示していない。微調整機構の機能からは、カムや溝の表面、ピンの形、回転部の保持、ばねの予圧が重要だと分かる。粗い表面で引っ掛かれば操作は滑らかでなくなり、緩い保持や摩耗があれば設定位置が動き得る。ただしこれは機構に基づく工学的説明で、当時の試験から摩擦係数や耐久回数を得たものではない。3 4

調整を行う際には、ひげぜんまいの変形や緩急ピンの条件も問題になる。熟練した調整者は微調整部を動かすだけでなく、複数姿勢や異なる巻上げ状態で歩度を比較する。機構の存在は、製品に一定の日差を約束する証明書の代わりにはならない。

採用作品と後世の方式#

個体具体的な確認内容読み取れる範囲
Patek Philippe No.156570、ケース2673721909年製の19リーニュ・クロノグラフ。メーカーアーカイブ抄本による販売日は1912年11月6日。Christie’sがカム式微調整器を記載20世紀初頭の改良型の実装例。1881年の初採用作ではない
Chronometro Gondolo No.181912、ケース401127Antiquorumが1905年頃と記す21リーニュ懐中時計。金の輪列、補償テンプ、端末曲線を持つひげぜんまい、特許緩急針を記載ブラジルのGondolo & Labouriau向けの具体例。年代はカタログの推定

両時計を比較すると、微調整器は単独で存在するものではなく、補償テンプ、ひげぜんまい、脱進機などと組み合わされて精密時計を構成したことが分かる。同じ名称の装置があることを、両者の試験歩度や振動数が同じ証拠とすることはできない。3 4

現代のパテック・フィリップのGyromaxは、テンプ上の偏心した錘の向きを変えて慣性を調整する方式である。ひげぜんまいの有効長を変える緩急針の微調整と、テンプの慣性を変える方式は、調整する物理量が異なる。Gyromaxを1881年の機構の名称変更と理解することはできない。5

年表と史料の限界#

年月出来事
19世紀、1881年以前緩急針でひげぜんまいの有効長を調整する時計技術が前提となる。微調整全般の唯一の発明者をフィリップとする根拠はない。
1881年博物館と公式社史がフィリップ精密レギュレーターの発明・特許を記録。1 2
1881年4月16日実物カタログがフランス特許142376号に結び付ける日付。4
20世紀初頭博物館資料によれば改良型をGondoloなどへ採用。1
1905年頃AntiquorumのGondolo No.181912の推定年代。4
1909年No.156570の製造。販売は1912年11月6日。3
2021年11月Antiquorumが具体的なGondolo個体を出品。4
2026年10月メーカー史と実物記録から歴史と構造を参照できる。初採用個体、原特許の全図面、定量的な性能比較は確定できない。

史料の限界は、特許の存在が確認できることと、その明細書の詳細を直接検討できることの違いにある。構造説明には公開された実物調査を用い、初期型と改良型を分けた。原特許の図面なしに細部を復元し、再現図として掲載することは避ける。

参考文献#

すべて2026年10月13日閲覧。

  1. Patek Philippe Museum, Patek Philippe Watches, Volume I 公開プレビュー, 公開年表示なし、印刷p.15(PDF p.11)。1881年の発明、20世紀初頭の改良型採用。

2. Patek Philippe, The History of Patek Philippe, Patek Philippe Magazine, Volume 3 No.10、公開年表示なし。1881年の特許という公式年表。

3. Christie’s, 「Patek Philippe, movement No.156570, manufactured in 1909」, Important Watches, 公開ページの開催日表示なし、Lot Essay・Details。実物の偏心カム、原発明の円盤・溝・円錐ピン、製造と販売のアーカイブ抄本。

4. Antiquorum, 「Patek Philippe, Gondolo & Labouriau」, 2021年11月6–7日ジュネーブ、Lot 100。No.181912の仕様、特許番号142376と1881年4月16日の記載。1881年公報そのものとは区別。

5. Patek Philippe, Glossary, 公開日表示なし。「Gyromax」「Balance」「Movement regulation」。現代の慣性調整方式との比較。