シリコンと形状設計を組み合わせた脱進機#
パルソマックス(Pulsomax®)はパテック フィリップが2008年に導入した、Silinvar®製のガンギ車とアンクルを用いるスイス・レバー式脱進機である。通常の脱進機を同じ形のままシリコンへ置き換えたものではなく、歯とパレットの衝撃面、部品の質量、組立と安全機構を組み合わせて再設計した。最初の採用作品はアドバンストリサーチ年次カレンダーRef.5450Pである。1 2
Spiromax®はヒゲゼンマイ、GyromaxSi®はテンプ、Pulsomax®は脱進機であり、三者を統合した調速系がOscillomax®である。シリコン製ヒゲを搭載した時計が必ずPulsomaxも搭載するわけではない。この区別は同社の技術採用史を読むうえで重要になる。2 3
開発の背景と特許#
レバー式で失われるエネルギー#
輪列から届く力をガンギ車が受け、アンクルを介してテンプへ断続的に伝える。テンプがアンクルを解放するまで歯を止め、衝撃を与えた後に次の歯を止めるという、スイス・レバー式の基本動作は維持される。接触には滑りと部品の加速があり、届いたエネルギーの全部がテンプの振動へ変わるわけではない。4
Pulsomaxに関係するEP1892589B1は、効率を「テンプが受けるエネルギーとガンギ車が供給するエネルギーの比」と定義する。入力・出力のパレットを大きくしすぎれば、アンクルが重くなって慣性損失が増える。単純に接触を長くすればよいのではなく、衝撃のどの区間を使い、どの部品の角度と質量を変えるかが設計課題になる。4
発明者と成立の時点#
EP1892589B1の発明者はAnthony Krüttli、Frédéric Maier、Jean-Pierre Musy、出願人はPatek Philippe SA Genèveである。2006年8月23日に出願、2008年2月27日にA1公開、2012年9月5日にB1公告された。2008年の製品導入と、2012年の特許公告は異なる出来事である。4
同社の2022年Ref.5470Pを扱う公式雑誌の部品図は、この特許番号をPulsomaxの効率改善に対応付けている。一方、2011年のメーカー資料はOscillomax全体で17件の特許出願を述べる。17件すべてを「Pulsomaxの特許」と数えることはできない。3 6
開発は工房の時計設計だけでなく、CSEM、IMT、EPFLとの長期協力で得た微細加工と材料科学の知識を背景に持つ。ただしメーカーが挙げる協力機関と、個別特許の発明者名は役割の異なる記録である。3
原理と構造#
衝撃面の長さを変える#
歯とパレットの接触では、歯の先端がパレットの衝撃面上を滑る部分と、パレットの先端が歯の衝撃面上を滑る部分がある。EP1892589B1は前者の効率を重視し、特に出パレットの衝撃面が担う角度を増やす。ガンギ車中心から測る出パレットの衝撃面の角度をLs、歯の衝撃面の角度をdとすると、主請求項はLs > 6.5°、Ls/d > 2.5を規定する。4
ここでいう角度はテンプの振り角ではない。測定は、歯とパレットの休止側の先端が接する、解放終端の所定の位置で行う。図面に描いた見かけの長さを直接比べるのではなく、測定中心と接触状態まで含む量である。4
パレットを広げてアンクルの移動角が増えると、テンプが脱進機と接触する角度まで増え、等時性へ不利になり得る。特許の実施例は振り石をテンプ軸から遠くへ置き、同じテンプ回転でより長い経路を動かすことで、テンプのリフト角を通常の48–54度程度に保つとしている。この値は特許の設計説明で、すべての市販キャリバーの測定値ではない。4
2011年の改良#
2011年版は2008年版と同一ではない。メーカーの説明では、パレット端部に休止用の切欠きを設け、次の衝撃前にアンクルを適切な始動位置へ導く。また歯間を広く取り、衝撃時の意図しない接触を抑える。アンクルのフォークの角を丸め、振り石との過大な衝突を抑え、角の間を橋のようにつなぐガード部で休止状態を保持する。3
ガンギ車の中心側には弾性スポークがあり、ハブへの圧入時に位置を決める。歯の周囲とスポークの間の内側の輪が、組立時の変形を歯へ伝えないようにする。軽量で正確に加工された単体だけでなく、軸へ付けた後の同心性も設計対象となっている。3
材料と製造#
Silinvarは単結晶シリコンと酸化処理を基盤とする時計用素材の商標である。Pulsomaxの部品はDRIE(深掘り反応性イオンエッチング)でウェーハから輪郭を作る。金属を切削・打抜きして別のパレットを組む方式と比べ、パレットを含むアンクルの輪郭を微細加工で再現できることが、大きく個別形状を変える自由度を与える。3
メーカーは、低密度、非磁性、耐食性、形状の再現性、潤滑不要を利点に挙げる。ただし「Pulsomaxの接触部が無注油で動く」という説明と、「時計全体を無注油にできる」という主張は違う。輪列や他の軸受の保守まで不要になるわけではない。3
微細なシリコン構造は弾性を利用できる一方、金属と同じ塑性修正はできない。組立時の弾性支持や歯を保護する輪は、素材選択と取付方法を一緒に設計した例である。公開資料は特定キャリバーの公差表や修理時の部品加工手順を提供しておらず、現場で任意に曲げ直せる部品とは扱えない。3
性能値の読み方と比較#
メーカーの2011年資料は、改良したPulsomaxによってテンプへ伝えるエネルギーが15–20%増えると説明する。2021年の日本語年史は2008年版について15%を超える伝達効率向上と記す。これらはメーカーの公表値で、絶対効率が15%や20%という意味ではない。また、使用条件と世代が異なる数字を同じ測定として合算してはならない。3 5
Ref.5550Pの最大70時間という持続時間は、Pulsomaxだけで得た結果ではない。2011年の発表はSpiromax、GyromaxSiと併用したキャリバー240 Q Si全体について、従来の48時間から最大70時間への増加を述べている。同発表は、主ゼンマイ、振動数、テンプの慣性を変更せずに増加を得たと明記する。脱進機の伝達損失だけでなく、テンプの空気抵抗などを減らした調速系全体の成果であり、脱進機の効率向上率と持続時間の増加率は一対一ではない。2 3
同じレバー式でも、ロレックスの関連特許US8529122B2は細いパレットと長い歯の衝撃面を重視する。両特許は先行するKenji AbeのUS3628327を論じながら、異なる角度配分を選ぶ。Pulsomaxとクロナジーを、シリコンまたはニッケル・リンという素材の違いだけで説明することはできない。4 7
ただし特許の効率議論は、材料、質量、周波数、安全性、実製品の調整まで同条件にした比較試験ではない。公表された個別設計の主張から、あらゆる条件でどちらが優れるかを断定することはできない。
採用作品と発展#
| 作品・時期 | 搭載と意味 |
|---|---|
| Ref.5250G、2005年 | Silinvarガンギ車の導入。Pulsomax導入前の段階 1 |
| Ref.5350R、2006年 | SpiromaxとSilinvarガンギ車。ヒゲと脱進機の名称を分ける必要がある 1 |
| Ref.5450P、2008年 | Pulsomaxを導入した年次カレンダー、300本限定 1 5 |
| Ref.5550P、2011年 | 改良Pulsomaxを含むOscillomaxをキャリバー240 Q Siへ統合 2 |
| Ref.5208、2011年 | メーカーはR CH 27 PS QIへの改良Pulsomax採用を発表 3 |
| Ref.5470P、2022年4月 | 5Hzの1/10秒クロノグラフにOscillomaxを採用。通常コレクションへの統合 6 |
2022年の採用は、少数の実験的限定作品だけで技術が終わったわけではないことを示す。一方、Spiromaxの幅広い搭載と、PulsomaxまたはOscillomaxの採用範囲は一致しない。公式資料の部品名を確認して、作品ごとに判断する必要がある。5 6
年表#
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 2005年 | Silinvarガンギ車をRef.5250へ導入 1 |
| 2006年8月23日 | EP1892589の出願 4 |
| 2008年2月27日 | EP1892589A1公開 4 |
| 2008年 | PulsomaxをRef.5450へ導入 1 |
| 2011年4月 | 改良PulsomaxとOscillomaxのメーカー発表 3 |
| 2012年9月5日 | EP1892589B1公告 4 |
| 2021年 | Advanced Research年史が採用と性能の公表値を整理 5 |
| 2022年4月 | Ref.5470P発表、Oscillomaxを通常コレクションへ導入 6 |
公開情報の限界#
メーカー資料は製品の採用と公表性能を確認する一次資料だが、独立機関の耐久試験や原始測定データではない。特許は構造と設計思想の一次資料であり、請求項の全範囲が市販部品へそのまま実装されたと保証しない。世代ごとの材質、公差、保守時の取扱いを一律に一般化できず、特許の法的な有効性も構造の説明とは別に扱う必要がある。
参考文献#
- Patek Philippe, Calendar Watches(公開年記載なし)、Advanced Research採用作品。 公式本文。閲覧日2026年10月13日。
2. Patek Philippe, Advanced Research Ref.5550P, 2011年、pp.1–2。 メーカーPDF。閲覧日2026年10月13日。
3. Patek Philippe, Patek Philippe presents the new GyromaxSi balance in gold and Silinvar, April 2011、全7頁。特にpp.3–4、6–7。 メーカーPDF。閲覧日2026年10月13日。
4. Anthony Krüttli, Frédéric Maier, Jean-Pierre Musy / Patek Philippe SA Genève, Swiss anchor escapement, EP1892589B1、2012年9月5日。Description、Figs.1–3、claim 1。 原語・翻訳併記の特許本文。閲覧日2026年10月13日。
5. Patek Philippe, アドバンストリサーチ Ref.5750, 2021年、年史pp.5–6。 日本語メーカーPDF。閲覧日2026年10月13日。
6. Pierre Maillard, “Patently Clear”, Patek Philippe Magazine, Vol.5 No.1、Ref.5470P(2022年発表)、pp.31–35。 公式PDF。閲覧日2026年10月13日。
7. Raphaël Cettour-Baron, Alexandre Chiuve / Rolex SA, Swiss lever escapement, US8529122B2、2013年9月10日。Descriptionの先行技術比較とTables 1–2。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。