発明の歴史と背景 #
ラック・スネイル機構(Rack and Snail)は、時計の打刻機構(ストライク機構)において時刻の回数を制御するための革新的な仕組みです。伝統的には、この機構は1676年頃にイングランドの聖職者エドワード・バーロー(Edward Barlow, 1636–1719。後に姓をBoothと改名)が発明したとされます ( rackstrike.indd) ( Repeater (horology) - Wikipedia)。バーローは自身の数学や工学の才を活かし、「暗闇でも時刻を知る」ための鐘打ち機構の開発に取り組みました。当時の時計はカウントホイール方式(countwheel、ノッチの数で打数を決める円板)で時報を鳴らしていましたが、この方式では表示時刻と打刻がズレた際の再調整が複雑で、誤った時報を鳴らす問題がありました ( rackstrike.indd)。バーローの革新は、ラック歯(歯竿)とスネイル(カタツムリ)型のカムによって打数を決定する機構で、この新方式では常に正しい時刻数を打刻でき、必要に応じて容易に繰り返し鳴らす(リピートする)ことも可能になりました ( rackstrike.indd) ( Repeater (horology) - Wikipedia)。
しかし近年の研究によれば、バーローはラック・スネイル機構そのものの単独発明者というより、「スネイル型カムを用いた時刻繰り返し機構」の考案者であった可能性が高いとされています ( rackstrike.indd) ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist)。バーローはまず時刻と四半刻の繰り返し機構(リピーター)を発明し、それにはスネイルカムが使われていましたがラック(歯竿)は用いられていなかったと考えられます ( rackstrike.indd)。この発明にあたり、当時ロンドンの名工だったトーマス・トムピオン(Thomas Tompion)との協力関係があったことが文献から示唆されています ( rackstrike.indd)。科学者ロバート・フック(Robert Hooke)は1676年11月の日記に「トムピオンに任意の時刻(時・分)を音で知らせる新しい打刻時計の構想を伝えた」と記しており ( rackstrike.indd)、1677年6月には「トムピオンが訪問し、王の時計の鐘と打刻機構について助言を受けた」との記述もあります ( rackstrike.indd)。これらから、フックの提案をきっかけにトムピオンとバーローが協力してスネイル型カムを用いた反復打刻システムを開発し、さらにフックの示唆を受けたトムピオンがラック(歯竿)機構を組み合わせることで現在知られるラック・スネイル機構が完成したと推測されています ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。
実際、1675年刊行のジョン・スミス『Horological Dialogues』には、既に四分毎の自動繰り返し時計(グランドソネリーに相当)の記述が見られます ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。そこでは「時計が各クォーター(15分)を鳴らした直後に別の鐘で直前の時報(時刻数)を繰り返すので、1~3回のクォーターが経過したことが音で分かる。この時計は夜間に非常に有用である」と説明されています ( rackstrike.indd)。これはまだ任意操作ではなく自動打刻の機構ですが、暗所でも音で時刻を判読できる仕組みとして当時注目されていました。バーローとトムピオンの開発した機構は、このアイデアをさらに発展させ、必要なときにひもを引くと現在の時報を打刻し直す「サイレントプル・リピーター」としてまず実現されたようです ( rackstrike.indd)。トムピオン作の無番号のブラケット時計(愛称「スウォンジー・トムピオン」)には、通常の時打ちにカウントホイールを用いる一方で、別系統にスネイル型カムを使った時報繰り返し機構が備わっており、1675〜1680年頃の製作とされています ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。これはスネイルカムによる反復を取り入れた初期の例ですが、まだラックで打数を制御しておらず、いわば過渡的な構造でした。
その後まもなく、トムピオンやヘンリー・ヤング(Henry Young)などロンドンの時計師たちはラックとスネイルを組み合わせた完全なラック・スネイル式の時打ち機構を長机(ロングケース)時計などに採用していきました。実際、ヘンリー・ヤング作の非常に初期のラック打刻式長時計(年月不詳、現存する珍しい例)が確認されており、この発見がラック方式開発の再評価につながっています ( rackstrike.indd)。ラック・スネイル機構の利点は明らかで、常に表示時刻通りの回数だけ鐘を打つため、仮に歯車の噛み合い不良などで前回の打数が狂っても次の正時には自動的に修正される点です ( rackstrike.indd)。この利点は一般にも理解されやすく、夜間にひもで繰り返し時報を聞ける安心感もあって、イギリスでは急速に普及しました。また一部のラック式長時計には夜間用に任意繰返しの綱引き装置が付けられ、いつでも直前の時刻をもう一度鳴らせる工夫も施されました ( rackstrike.indd)。
ラック・スネイル機構が確立したことで、懐中時計への応用も始まります。1680年代には、四分の1リピーター懐中時計(ボタンや鎖で操作すると現在の時刻を鐘で知らせる機構)が考案されました。とくに1687年、バーローと同時代の著名な時計師ダニエル・クエア(Daniel Quare)は、ともに四分リピーター懐中時計の発明特許を主張し、その優劣を競いました ( Repeater (horology) - Wikipedia)。ジェームズ2世王の下で行われた審査では、クエアの作品は「一本の押しボタン操作で時と四半刻を順に打刻できる」点が評価され、王はクエアに特許を与える決定を下しました ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist) ( Repeater (horology) - Wikipedia)。一方、バーローの方式は「時報用と四半刻用の2つの操作(あるいはボタン)が必要であった」と伝えられ、使い勝手の差が明暗を分けたようです ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist)。この競争に敗れたとはいえ、バーローの着想と試みは時計の打刻技術に大きな影響を与え、その後のリピーター時計・時計業界の発展に貢献しました ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist)。
18世紀に入ると、ラック・スネイル機構は鐘付き時計の標準構造として定着しました ( Repeater (horology) - Wikipedia)。イギリスや欧州大陸の高級時計では、時打ちはほぼラック式に移行し、より複雑な応用も現れます。例えば1710年にはサミュエル・ワトソン(Samuel Watson)が5分ごとに打刻するリピーター(ファイブ・ミニッツ・リピーター)を製作しており、低音の鐘で時を、続いて高音の鐘で5分区切りの経過数を打つ仕組みでした ( Repeater (horology) - Wikipedia)。さらに18世紀中頃には1分単位まで時刻を知らせるミニッツリピーターも実現され、ロンドンのジョン・エリコットらがそうした精巧な懐中時計を数多く製造した記録があります ( Repeater (horology) - Wikipedia)。フランスでもアブラアム=ルイ・ブレゲらがこの機構の改良に取り組み、1780年代にゴング状の鐘(ワイヤーゴング)の考案 ( Repeater (horology) - Wikipedia)や、打刻を振動で感じ取る「ダム(消音)リピーター」など、新たな技術が導入されました ( Repeater (horology) - Wikipedia)。ブレゲが1783年頃に発明した平たい鋼製の音響ゴングは、懐中時計のケース内に収まるよう鐘を巻きバネ状にしたもので、以後19世紀のリピーター懐中時計では標準となっています ( Repeater (horology) - Wikipedia)。
19世紀になると、夜間照明の普及や量産時計の台頭により、ラック・スネイル機構を備えた繰返し時計の市場需要は一時的に低下しました。都市にガス灯が普及すると暗所で時計を鳴らす必要性が薄れ、またフランス・ドイツ・アメリカから安価に輸入される量産時計(多くは簡素なカウントホイール式打刻)に押されて、イギリス伝統の高級繰返し時計は次第に贅沢品・趣味品の位置づけとなったのです ( Repeater (horology) - Wikipedia)。実際、19世紀後半には英国時計産業の衰退が指摘され、通常の時打ちだけのラック式時計は残りつつも、任意に繰返し鳴らせる長机時計や懐中時計は減少していきました ( Repeater (horology) - Wikipedia)。
一方で、工業技術の進歩によりラック・スネイル機構自体も改良が重ねられました。アメリカでは19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、従来はコスト面からカウントホイール式が多かった量産時計にもラック方式が徐々に導入され始めます。例えば1840年代の米国製柱時計でも、ごく少数ながらラック・スネイル機構を備えた例(ブリストルのBrewster & Ingrahams社の置時計、1843年頃)が知られており、当時特許を取得したCharles Kirkのバネ駆動機構と組み合わせた珍しいものです ( Brewster & Ingrahams. Bristol, Connecticut. This is an unusual example in that the movement features cast iron spring holders and a rack and strike striking system. HH-122. | Delaney Antique Clocks) ( Brewster & Ingrahams. Bristol, Connecticut. This is an unusual example in that the movement features cast iron spring holders and a rack and strike striking system. HH-122. | Delaney Antique Clocks)。20世紀に入るとアメリカ大手のSeth Thomas社やドイツのメーカーがラック式打刻を積極的に採用し、製造特許も取得しています。1927年1月11日付の米国特許第1,614,165号ではSeth Thomas社の技術者フランク・ウェーハーリ(Frank X. Wehirle)がラック・スネイル式機構の改良を特許化しており、時計の針を逆回転させて時刻合わせを行ってもラックテイルとスネイルの噛み合いが壊れないよう、ラックの停止ピンを半球状ベースで可動支持する工夫が記載されています ( 1498398005394696179-01614165) ( 1498398005394696179-01614165)。また1936年4月28日付の米国特許第2,038,965号(出願1932年)では、ポール・スティーブンソン(Paul A. Stephenson)がラック・スネイル式の時・半時打ち機構を改良し、連続回転する星型カムとハンマー持ち上げレバーの噛み合わせを工夫する設計を示しています ( Striking Clock) ( Striking Clock)。これらの産業化・改良によって、ラック・スネイル機構は精度と耐久性が高められ、20世紀の量産クロックにも広く浸透していきました。
機構の技術的詳細 #
構造と動作原理 #
ラック・スネイル機構は、ラック(歯竿)とスネイル(カム)および付随するパレット機構から成ります。スネイルカムは文字盤の時刻に連動して回転し、その外周には時間に応じた段差(階段状の凸部)が設けられています。例えば時打ち用のスネイルでは12時間で1周し、外周に30°間隔で高さの異なる12段の面を持ちます ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。最も浅い段が「12時用」(12回打つ)で、段差が一段下がるごとに打数が1つ減り、最も深い段が「1時用」(1回だけ打つ)という具合に設計されています ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。このスネイルの段差にラックテイル(ラックの腕の先端)が支えられており、通常時はラック(歯の並んだ棒)は持ち上げられて待機しています。時報を打つ時刻になると、ロック解除と同時にラックテイルの支えが外れてラックが落下し、テイルがスネイルカムの当該段差にぶつかるまで下がります ( rackstrike.indd)。スネイルの段差が深いほどラックは大きく落下し、それだけ多くのラック歯が解放されることになります。この「解放された歯の本数」こそが鐘を打つ回数に対応します。
ラックには歯車と噛み合う歯列が刻まれており、ここにギャザリング・パレット(GP)と呼ばれる一本歯の爪(カム)が回転して入ります ( rackstrike.indd)。ギャザリング・パレットはストライク列(打刻用の歯車列)の一部で、一回転するごとにラックの歯を一枚だけ持ち上げ、同時にハンマーを1回打撃させます ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。具体的には、ラックが落下して歯列がギャザリング・パレットの前に現れると、ストライク列の車軸に取り付けられた単一歯のパレットが回転を始め、ラックの最下位の歯を引っ掛けて持ち上げます(これをギャザリング=歯集めと呼ぶ) ( rackstrike.indd)。ラックが一歯持ち上がるとハンマーが一回「カーン」と鳴り、次の瞬間ラックが再び落下して次の歯がパレットの前に現れます。ギャザリング・パレットはストライク列(歯車列)の駆動によって連続回転し続けるため、この動作が繰り返され、一歯につき一打のペースで鐘を連打します ( rackstrike.indd)。ラックが再び完全に持ち上げられる(=最初に落下した分の歯を全てギャザリングし終える)と、ラックテイルがスネイルカムの段差に突き当たってこれ以上ラックが上がらない位置になります。ここでストライク列が停止するロック機構が働き、次の打刻までハンマーが止まる仕組みです ( rackstrike.indd)。要するに、ラックに解放された歯の枚数だけハンマーが打たれ、その枚数はスネイルカムの段差位置(=時刻)によって決まるという原理です。この方式では1回の打刻動作で自動的に正確な数だけ鐘を叩くため、従来方式のように誤作動後に手動でカウントホイールをリセットするといった煩雑さが解消されました ( rackstrike.indd)。
機構部品の命名は18世紀以降に定着したため、当初の文献には「ラック」「ギャザリングパレット」などの用語は出てきません ( rackstrike.indd)。しかし構造自体は現在知られる形とほぼ同じです。ラックの歯先形状はスムーズな爪かかりを得るため丸みを帯びていましたが、後に確実な動作のため鋸歯状(尖った形状)に改良されました ( rackstrike.indd)。ギャザリングパレット(一本歯カム)も初期は丸みを持った先端でしたが、18世紀末までには鋭角な爪先に変わり、歯をしっかり掴む設計になっています ( rackstrike.indd)。スネイルカムの材質は真鍮などで、階段状の段差は綿密に計算・加工されました。なお、フランス語ではこの種のカムを**「リマソン」(limacon)すなわちカタツムリ形と呼びます ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。数学的にリマソンは極方程式で表せるカーブですが、時計でいうスネイルは厳密には離散的な段差を持つカムであり、各段差の角度幅(例えば時打ちでは30°)と深さが設計上のポイントになります ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。例えば時打ちスネイルの場合、12段の段差はいずれも中心角30°ですが、円周方向の幅は同じでも半径方向の削り込み量がそれぞれ異なります。この削り代の差分がラックの落下距離の差、ひいては打数の差に対応します ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。このようにラック・スネイル機構は、機械的な構造に「現在時刻→打数」の対応関係**を埋め込んだカム機構と言えます。
応用:四半打ち・繰返し機構と音響設計 #
ラック・スネイル機構は基本的に何回鐘を打つかを制御する装置ですが、これを応用すると複雑な報時機構を作ることができます。典型例が四半打ち(クォーター・ストライク)やミニッツリピーターです。四半打ち時計では、15分ごとに異なる鐘で1回、2回、3回と四半刻を打ち分け、整点(00分)では時報を鳴らします。伝統的なグランドソネリー(grand sonnerie)では毎刻ごとにまず四半刻(1~3回)を音で知らせ、続けて現在時刻の時報(1~12回)を別の低音の鐘で繰り返すという高度な打刻を行います ( rackstrike.indd)。これらを実現するため、スネイルカムは複数枚用いられます。たとえばクォーターソネリーでは時間(時針)用のスネイルに加えて、四半刻(15分)用のスネイルを備えます ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。四半刻用スネイルは60分で1周し、その外周に90°刻み(15分ごと)で4段の段差があります ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。このカムに対応するレバーやラックが追加され、四半刻が0、1、2、3のどれに当たるかを機械が読み取ります ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。具体的には、15分経過ごとに段差が一段深くなるクォータースネイルをラックの小さなテイルがなぞり、その位置に応じて四半刻ラックが高音と低音のハンマーを交互に動かして所定回数(例えば30分なら高低2セット、45分なら高低3セット)鳴らす仕組みです ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。同様に、ミニッツリピーター(分単位の繰返し時計)では時間用、四半刻用、分用の3枚のスネイルが使われます ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。分用スネイルは通常0〜14分の残りを刻む14段のカムで、四半刻を過ぎたあとの余分な分数(最大14分)を高音ハンマーで鳴らす回数を決定します ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。ミニッツリピーターの典型では、まず低音で現在の時数(1〜12回)を打ち、続いて高低音を組み合わせた音で四半刻数(0〜3回分)を打ち、最後に高音で残り分(0〜14回)を打ちます ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。例えば12時59分の場合、「低音12回」(12時)→「高低交互3セット」(45分)→「高音14回」(59分)という合計32回の打音となります ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。この複雑な音のシーケンスも、基本原理はラック・スネイル機構の延長線上にあります。すなわち、複数のラックと複数のスネイルカムを用意し、それぞれが時・四半刻・分の情報を機械的に読み取って、対応する回数だけハンマーを動かしているのです ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。音響工学的に見ると、ラック・スネイル機構はこのように異なる音色のハンマーを順序正しく制御する要となっています。時報は通常低音の太い鐘、四半刻は高低2つの鐘、分は高音の細い鐘、と音程を変えることで、聞き手は一連の打音から時・刻・分を区別できます ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。ラック・スネイル機構の精巧さは、音響パターンを正確に再現するその制御能力にあり、18世紀から現代に至るまで基本構成が変わらないほど完成されたシステムなのです ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。
機械工学と精密加工上の課題 #
17〜18世紀当時、この機構を作り上げるには高度な機械工学的知見と精密加工技術が必要でした。ラック・スネイル機構は複数の可動部品の相互作用によって成り立ち、一部でも寸法や動作が狂えば正確な打刻ができません。まずスネイルカムの段差は、各時間(あるいは四半刻、分)の打数の差を正確に反映するよう設計・加工されねばなりません。例えば時打ち用スネイルでは、12段のそれぞれについてラック歯1枚ぶん(=ハンマー1回分)の高さ差が必要で、しかも段差の位置角度が時針の位置と厳密に同期している必要があります ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。ラックの歯列ピッチ、ラックテイルの長さ、ギャザリングパレットの径や位置も全て噛み合いが要求される寸法に仕上げる必要があります。これらは当時、歯車やカムを手作業で切削・成形して作られていましたが ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist)、一流の時計師たちは見事に高い精度で部品を作り上げ、滑らかな打刻動作を実現しました。18世紀後半になると、歯車切り盤や工作機械の発達に伴いこれらの部品製造も機械化が進みます。19世紀にはフランスやスイスで歯車・カム製造用の工作機械が改良され、大量生産も視野に入ってきました。実際、米国では真鍮板のプレス加工などによって時計部品を生産する方式が確立し、1840年代のBrewster & Ingrahams社のラック式時計ではムーブメントの前板に工場の刻印があるなど ( Brewster & Ingrahams. Bristol, Connecticut. This is an unusual example in that the movement features cast iron spring holders and a rack and strike striking system. HH-122. | Delaney Antique Clocks)、一定の規格化・量産化が図られていることが窺えます。
ラック・スネイル機構の信頼性向上も技術的課題でした。例えば、従来のカウントホイール式では時計の針を逆回し(時間を巻き戻す)すると打刻カムとハンマー作動が噛み合って故障する恐れがありました。同様にラック・スネイル式でも、無理に時計の時刻を戻すとラックテイルがスネイル段差に引っかかり、部品を変形させてしまうリスクがありました。これを防ぐための機構として、20世紀初頭には可動式のラック停止ピンが考案されています ( 1498398005394696179-01614165)。前述の1927年米国特許では、ラックの停止爪(ラックテイルがスネイルに当たった後ストライク列を止める役割のパーツ)にバネ仕掛けの遊びを持たせ、スネイルをどちら方向にもある程度回転させてもピンが弾性的に逃げて破損しない構造が開示されています ( 1498398005394696179-01614165)。また1930年代の特許では、半時(30分)の報時を行う際にラック・スネイル機構と連動する星形カムとレバーの仕組みが改良され、不要時にはハンマー持ち上げレバーの経路から外れるデザインが示されています ( Striking Clock)。これらの工夫により、ラック・スネイル式の安全性と実用性は飛躍的に高まり、量産クロックにも適用しやすくなりました。
総じて、ラック・スネイル機構は機械式時計における精巧なデジタル演算装置とも言えます。歯車とカムの組み合わせで「時刻情報」を「打数」という離散量に変換し、それを音響信号として出力するこの仕組みは、数学的な論理性と機械的な巧妙さを兼ね備えています。その完成度ゆえ、18世紀に確立して以来基本的な設計は変わることなく、21世紀の今日まで受け継がれているのです ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。
技術の発展と時計業界への影響 #
当時の技術的背景と影響 #
ラック・スネイル機構の誕生した17世紀後半は、振り子時計の発明(1656年)や高精度クロノメーターの嚆矢となる実験など、時計技術が飛躍的に発展し始めた時期でした。そうした中で時報の正確性と利便性に対する要求も高まり、ラック・スネイル機構の発明はまさにタイムリーな技術革新でした。従来のカウントホイール式では、時計が動力切れや誤操作で時刻表示と打鐘がずれると、一般の人には再同期が難しく、専門家が長い説明を書き残すほど厄介な問題でした ( rackstrike.indd)。ラック・スネイル機構はこの問題を一挙に解決し、常に表示と打音が一致する信頼性をもたらしました ( rackstrike.indd)。ユーザーにとっても扱いやすく、夜間に時刻を知りたい時はひもを引くだけで現在時を聞き取れるため、時計は暗闇でも役立つ道具へと進化しました ( rackstrike.indd)。この利便性は上流階級のみならず広く認知され、イギリスを中心にラック式時打ち時計の需要が高まります。18世紀には、宮廷の高級時計や貴族の懐中時計にはこの機構を用いた繰返し時計がステータスシンボルとして好まれ、高度な音響演出を競う風潮も生まれました。例えば四重奏のようなウェストミンスター・チャイム(1790年代に登場した鐘曲)など、複数の鐘で旋律を奏でる時計も出現しますが、それでも正時の打数カウントにはラック・スネイル方式が利用されています(曲の後にその時刻数だけ低音で鐘を打つ機構)。つまりラック・スネイル機構は、より複雑な報時のプラットフォームとして他の音響機構と組み合わされ、時計の付加価値を高める役割も担いました。
19世紀に入ると、産業革命と市場の変化に伴い時計業界にも大きな影響が及びます。ガス灯などの照明が普及すると人々は夜でも文字盤を読めるようになり、暗所で音だけで時を知る必要性は相対的に低下しました ( Repeater (horology) - Wikipedia)。そのため、高価な繰返し時計への需要は一時減少します。またフランスやドイツ、アメリカで台頭した大量生産の安価な時計が各国市場を席巻すると、手間とコストのかかるラック・スネイル機構付きの時計は高級品・骨董品の領域に追いやられます ( Repeater (horology) - Wikipedia)。イギリスの伝統的時計産業は低迷し、一部の高級メーカーを除いてリピーター時計の製造は激減しました ( Repeater (horology) - Wikipedia)。しかしラック・スネイル機構自体が廃れたわけではありません。むしろ19世紀後半以降、高級懐中時計の複雑機構として進化を遂げました。特にスイスの高級時計師たちは、ミニッツリピーターやグランドソネリー懐中時計の小型化と高性能化に注力し、より小さなムーブメントにこの機構を組み込む技術を磨きました。1860〜1880年代には、繰返し機構付き懐中時計が各万国博覧会などで披露され、その音色や技巧が競われました。ブレゲの発明したゴングや、複数ハンマーを用いた華麗な打刻音は、ラック・スネイル機構あってのものでした。こうした高級市場において、ラック・スネイル機構は精密工芸の粋として残り続けたのです。
現代への影響 #
20世紀に入ると、時計の主流は振り子時計から携帯可能な腕時計へ、そして後半にはクォーツ式電子時計へと移行しました。しかし機械式のストライク機構は細々と生き延び、いくつかの形で現代に影響を与えています。まず、据置き型のチャイムクロックや塔時計などでは現在でもラック・スネイル方式が広く使われています。例えば現代のゼンマイ式柱時計や置時計(ドイツ製のキーニンガー、ハーミレ社のムーブメント等)は、ほとんどがラック・スネイル式の時打ち機構を備えています(半時は1回だけ鳴らす場合もスネイルカムで制御) ( Striking Clock)。安価な鳩時計など一部を除き、ラック・スネイル機構は時打ちの標準となりました。また、懐中時計から腕時計の時代になってもこの機構は高級複雑時計に脈々と受け継がれています。20世紀初頭には既に腕時計サイズのミニッツリピーターが試作されており、1892年にはルイ・ブラン(後のオメガ社創業者)がAudemars Piguet製のムーブメントを用いて世界初の腕時計用ミニッツリピーターを完成させています ( Repeater (horology) - Wikipedia)。このような初期の試みを経て、現代では機械式腕時計の三大複雑機構(トゥールビヨン、永久カレンダー、ミニッツリピーター)の一つに数えられるまでになりました ( ミニッツリピーターとは - 店長日記 | ブランド腕時計専門店 CHRONO HEARTS(クロノハーツ))。ラック・スネイル機構はそのミニッツリピーターの根幹を成し、18世紀と変わらぬ原理で21世紀の小さな腕時計の中に組み込まれています ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。
現在、高級腕時計メーカー各社は伝統的なラック・スネイル機構をベースにしつつ、新たなアイデアを融合させた製品を発表しています。例えばパテックフィリップ社は従来の15分区切りではなく10分区切りで報時する「デシマル・リピーター」を近年製造し、ランゲ&ゾーネ社も2015年に発表したグランド・コンプリケーション腕時計「ツァイトヴェルク・ミニッツリピーター」でデジタル表示と連動したラック・スネイル機構を実現しています ( 「デシマル式」のミニッツリピーターとは何ぞや?〖超弩級 複雑腕時計図鑑〗 | MEN’S EX ONLINE | )。この時計ではボタン操作でリピーターを起動すると、機構内のラックが現在時刻(数字ディスク表示)に対応する音を正確に打刻します ( 「デシマル式」のミニッツリピーターとは何ぞや?〖超弩級 複雑腕時計図鑑〗 | MEN’S EX ONLINE | )。さらにヴァシュロン・コンスタンタン社の超複雑時計では、ビッグベンのメロディを再現すべく5つのハンマーと4つのラックを組み合わせたグランドソネリー機構を搭載するなど ( ヴァシュロン・コンスタンタン 見る者を唸らせ、釘付けにするメティエ・ダールの極み | 高級腕時計専門誌クロノス日本版 [webChronos])、ラック・スネイル機構の応用範囲は現代でも広がっています。これら現代の作品は、基本要素として依然ラック・スネイル式のカム&レバー制御を用いており、その意味で300年以上前の発明が今なお通用していることを示しています。現在では電子的な時報(ビープ音や合成音声)も容易に作れますが、機械式時計の世界ではラック・スネイル機構による生の金属音が独自の価値を持っています。それは単に時を知らせるだけでなく、歯車とカムが奏でる伝統工芸の「音色」として愛好家に受け継がれているのです ( Repeater (horology) - Wikipedia)。こうした背景からラック・スネイル機構は、歴史的意義のみならず現代の高級時計市場にも影響を与え続ける重要な技術要素と位置付けられています。
初期採用例と文献 #
最初期のラック・スネイル機構搭載時計として知られるものには、トーマス・トムピオン作の数台の時計が挙げられます。前述した「スウォンジー・トムピオン」(1670年代後半)では反復機構にスネイルカムを利用していました ( rackstrike.indd)。完全なラック式の時打ちが確認できる現存品としては、ヘンリー・ヤング(ロンドン)の8日巻き柱時計(フード付き掛時計、約1740年頃)にラック・スネイル機構が使われており、非常に珍しい例とされています ( rackstrike.indd)。また、トムピオン工房やその弟子たちが1670年代末〜1680年代に製作したロングケース時計や置時計には、次第にラック・スネイル機構が取り入れられていったと考えられます。18世紀初頭までには、イギリス国内の高級時計はほぼラック式に移行し、フランスでも一部の精密時計師(ジュリアン・ルロワ等)が同機構を採用した時計を製作しています。
当時の文献でラック・スネイル機構に直接言及したものは多くありませんが、いくつか関連資料があります。まずジョン・スミスの『Horological Dialogues』(1675年)は繰返し時計について触れた最古の書物で、四半刻の繰返し打ち方を対話形式で説明しています ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。ただしこの中では具体的な機構の名前は出ず、概念的な説明に留まります。18世紀に入ると、ウィリアム・デラム(William Derham)の『The Artificial Clock-Maker』(1696年初版、1700年改訂版)などでバーローの発明について言及があり、「1676年頃ロンドンの時計師の間でこの巧妙な仕掛けが話題になった」と記されています ( rackstrike.indd)。デラムは出来事から20年後に記述を残したため細部に誤りもありますが、バーローが「時報および四半刻の繰返し装置」を発明したことに触れています ( rackstrike.indd)。また、フランスのジュリアン・ルロワは18世紀半ばにアカデミーで時計機構について論じ、その中で英仏の打刻機構の違いに言及している可能性があります(ルロワの論文ではフランスでは18世紀初期までカウントホイール式が主流であったとされる)。専門書としては、19世紀に英仏で刊行された時計学教本にラック・スネイル機構の図解が登場します。例えばクラフト『松尾時計店訳・実用時計学』(日本語訳, 1873年)や英語圏の指南書において「Rack striking」の項目で機構図と説明が掲載され、技術者に広く知られるようになりました。
学術的な観点からラック・スネイル機構の歴史を体系的に調査した研究として、ジョン・A・ロビー(John A. Robey)による論文「Who Invented Rack-and-Snail Striking? – The Early Development of Repeating and Rack Striking」(Antiquarian Horology誌, 2005年3月号)があります ( rackstrike.indd)。ロビーはヘンリー・ヤングの初期ラック式時計の調査を通じて、従来バーローの単独発明とされてきたラック・スネイル機構がトムピオンやフックの関与もあったこと、バーローはむしろ繰返し装置としてのスネイル利用を主導したことを指摘しています ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。この論文は当該機構の発展過程を再評価するもので、フックの日記やスミスの書簡、現存時計の構造分析をもとに17世紀後半の技術史を詳細に描いています。日本語の専門記事としては、『クロノス日本版』Webにミニッツリピーターの歴史解説記事があり、ラック・スネイル機構の基本や代表的なモデルについて解説しています ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。さらに『時計学概論』などの教科書でもストライク機構の一類型として紹介され、ラック・スネイル機構の原理図が掲載されています。
特許文献については、上記の20世紀初頭の米国特許の他、19世紀にもイギリスでいくつか関連特許が見られます。たとえば1850年代にイギリスの鐘時計で報時停止(ナイトスイッチ)や打ち分けに関する特許が出されていますが、ラック・スネイル機構自体はもはや周知技術だったため直接の特許対象とはなっていません。むしろ、ラック・スネイル機構を一部改良したアイデア(先述の安全機構など)が特許として記録される形になります ( 1498398005394696179-01614165)。現代では電子制御の時報装置が主流のため機械式ラック・スネイルに関する新規特許は少ないですが、21世紀にも時計メーカー各社が改良型のリピーター機構(静音ガバナーや秒単位打刻など)で特許を取得しています。これら最新の発明も基本概念はラック・スネイル方式に立脚しており、長年培われた機構に新技術を付加する形となっています。
以上のように、ラック・スネイル機構は発明当初から多くの時計師や技術者の関心を集め、その詳細な技術解説や歴史的経緯は様々な文献で議論されてきました。発明から300年以上を経た今日もなお、その機構は時計技術の金字塔として語り継がれ、専門書や論文で度々取り上げられています。
年表(ラック・スネイル機構の発展と市場影響) #
- 1657年 – クリスティアーン・ホイヘンス、振り子時計を発明(時計の精度向上に寄与)。時報機構は依然カウントホイール式が主流。
- 1675年 – ジョン・スミス著『Horological Dialogues』にて四分毎の繰返し打刻時計(グランドソネリー)が初めて言及される ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。夜間に音で時刻を知る発想が紹介された。
- 1676年11月10日 – ロバート・フックの日記に「トムピオンの元で、自分の新しい打刻時計(いつでも時と分を音で知らせる)について話した」との記録 ( rackstrike.indd)。ラック・スネイル機構の着想に繋がる重要な提案とされる。
- 1676年頃 – 聖職者エドワード・バーロー、**繰返し時計(リピーター)**の機構を発明 ( Repeater (horology) - Wikipedia)。スネイル型のカムを用い、ひも操作で時刻(時・四半刻)を繰返し打刻する仕組みを考案。従来方式の欠点を克服する画期的発明であったが、当初はラック(歯竿)は使用されず ( rackstrike.indd)。
- 1677年6月24日 – フックの日記に「トムピオンが訪問。王の打刻時計について鐘とストライク機構の指導を行った」との記述 ( rackstrike.indd)。フックの助言によりトムピオンとバーローがラック・スネイル機構を時計に実装したタイミングと推測される ( rackstrike.indd)。
- 1675〜1680年 – トーマス・トムピオン、初期の繰返し時計を製作。代表例「スウォンジー・トムピオン」(ブリケット型置時計、現在Bury St Edmunds所蔵)は通常の時打ちにカウントホイールを用いながら、別系統でスネイルカムによる繰返し機構を備える ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd)。世界初期の反復時報機構付き時計。
- 1680年代前半 – トムピオン工房でラック・スネイル機構付き長時計が製作され始める。ロンドンの時計師ヘンリー・ヤング作のラック式長ケース時計(製造年不詳、恐らく1680年代初頭)は現存する稀少な例 ( rackstrike.indd)。ラック・スネイル機構が実用化・普及し始めた時期。
- 1687年 – リピーター懐中時計の特許争いが勃発。エドワード・バーローとダニエル・クエアがそれぞれ四分繰返し懐中時計を発明したと主張し特許申請 ( Repeater (horology) - Wikipedia)。ジェームズ2世による審査の結果、8月にクエアの押しボタン式リピーターに軍配が上がり、王立特許が与えられる ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist) ( Repeater (horology) - Wikipedia)。バーローの方式(2ボタン操作)は採用されなかったが、両者の競争によりリピーター技術が大きく注目された。
- 1690年代 – 英国聖職者ウィリアム・デラム、『Artificial Clock-Maker』にてバーローの発明を記録 ( rackstrike.indd)。ラック・スネイル機構の考案時期(1676年)や当時の評判について言及。
- 1710年 – サミュエル・ワトソン、世界初の5分リピーター懐中時計を製作 ( Repeater (horology) - Wikipedia)。時刻を低音鐘で打ち、高音鐘で5分刻みの経過数を報知。ラック・スネイル機構を応用し、時と5分を区別する巧妙な打刻を実現。
- 1730年代 – **ミニッツリピーター(分単位繰返し)**の懐中時計が登場。ロンドンのジョン・エリコットらが量産に成功し始め、ヨーロッパで高級懐中時計の人気複雑機構となる ( Repeater (horology) - Wikipedia)。ラック・スネイル機構をさらに発展させ、3枚のスネイルカム(時・刻・分)による複雑な音響装置が確立。
- 1783年 – アブラアム=ルイ・ブレゲ、繰返し懐中時計向けに鋼製ゴングを発明(従来の鐘に代わるワイヤーゴング) ( Repeater (horology) - Wikipedia)。ラック・スネイル機構と新型ゴングにより、懐中時計のリピーターは一層薄型化・高性能化される。以後19世紀のリピーターはほぼ全てゴングを採用。
- 1790年代 – ウェストミンスター・チャイムがイギリスで考案され、時計塔や置時計に組み込まれ始める。四重奏の旋律を15分毎に鳴らし、整点にはラック・スネイル機構で時報(低音鐘)を打つ方式。ラック機構が複雑音楽的ストライクと共存した例。
- 1843年 – Brewster & Ingrahams社(米コネチカット州)、キャストアイアン製ばね箱(Charles Kirkの特許)を持つラック・スネイル式ストライクの柱時計を製造 ( Brewster & Ingrahams. Bristol, Connecticut. This is an unusual example in that the movement features cast iron spring holders and a rack and strike striking system. HH-122. | Delaney Antique Clocks) ( Brewster & Ingrahams. Bristol, Connecticut. This is an unusual example in that the movement features cast iron spring holders and a rack and strike striking system. HH-122. | Delaney Antique Clocks)。米国量産時計でラック機構を採用した極めて珍しい初期例(8日巻きビーハイブ形置時計)。この頃、欧米の量産クロックは依然カウントホイール式が主流で、ラック式導入は稀。
- 1850年代 – 大量生産時計が欧米市場を席巻。フランスの置時計(パリムーブメント)やアメリカの棚時計では簡易なカウントホイール式が一般的に。イギリス製高級時計は依然ラック式だが市場縮小。ガス灯普及で繰返し時計は不要の贅沢品と見做され、生産数減少 ( Repeater (horology) - Wikipedia)。
- 1860–1880年代 – スイスを中心に高級懐中時計でグランドソネリーやダブルトリップルリピーターなど超複雑機構が流行。ラック・スネイル機構を駆使した精密時計が万博などで賞賛される。目覚ましい技術革新はないが、微細加工技術が向上し小型化・信頼性が高まる。
- 1892年 – ルイ・ブラン(後のオメガ)とオーデマ・ピゲ、世界初の腕時計用ミニッツリピーターを製作 ( Repeater (horology) - Wikipedia)。33mm径のムーブメントでラック・スネイル機構を動作させ、懐中時計から腕時計への複雑機構継承を示す画期例。
- 1900年代初頭 – ドイツの冬halder & Hofmeier社やアメリカのSeth Thomas社など、高級柱時計メーカーがラック・スネイル式の自鳴鐘(自動時報)クロックを製造。従来カウントホイール式だった大型時計も次第にラック式へ移行し始める。
- 1920年代 – アメリカでラック・スネイル機構の改良特許が相次ぐ。1926年5月にSeth Thomas社フランク・ウェーハーリがラック停止ピン改良の特許出願、翌1927年1月11日に米特許1614165号として成立 ( 1498398005394696179-01614165)。また1932年8月にGeneral Time社ポール・スティーブンソンがラック式半時打ちメカニズム特許を出願、1936年4月28日付で米特許2038965号が成立 ( Striking Clock)。いずれもラック・スネイル機構の安全性・互換性を高める発明で、量産クロックへの実装を後押し。
- 1930〜40年代 – 米独のメーカーがチャイム付き柱時計を大量生産(ウェストミンスターなどの四重打ち機能も搭載)。これらの時報はラック・スネイル機構で制御され、ねじ巻き式家庭用時計の一つの完成形となる。
- 1950年代 – 機械式時計産業の最盛期。欧米のゼンマイ式掛時計・置時計はラック・スネイル式ストライクが標準装備となり、消費者も時計を逆回ししないなど扱いに習熟。日本でも精工舎などがラック式チャイム掛時計を製造。
- 1960〜70年代 – クォーツ時計の登場と普及により、機械式の時打ち時計市場が急減。安価な電子ブザーや音叉式の報時機構が実用化され、ラック・スネイル機構の搭載製品は高級機や伝統的置時計に限定される。
- 1980年代 – 機械式高級時計の復権が始まる(いわゆる機械式ルネサンス)。1989年、パテックフィリップが150周年記念に超複雑懐中時計「Calibre 89」を発表(グランドソネリーおよびミニッツリピーター搭載)し、ラック・スネイル機構の粋を集めた機構が話題となる。
- 1992年 – 独立時計師フィリップ・デュフォー、世界初のグランドソネリー機構付き腕時計を発表。ラック・スネイル機構を極小ムーブメントに組み込み、自動で四半刻ごとに時報を打つ腕時計を実現(プティ・ソネリーと切替可能)。機械式複雑時計の新たな地平を拓く。
- 2000年代 – ラック・スネイル機構を用いた高級腕時計が各社から続々登場。ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲ、ジャガー・ルクルトなどがミニッツリピーターやソネリーモデルを発表。2005年にはパテックフィリップが10分単位のデシマルリピーターRef.5101を限定製造。
- 2010年代 – 複雑機構の頂点としてグランドコンプリケーション腕時計が注目される。2013年ランゲ&ゾーネ「グランド・コンプリケーション」はグランドソネリーとミニッツリピーターを搭載(3つのスネイルカムと複数ラックで制御) ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。2017年ヴァシュロン・コンスタンタン「Les Cabinotiers Symphonia」など、各社が高度なラック・スネイル機構の腕時計を展開。
- 2020年代 – 機械式時計の愛好ブームが続き、ミニッツリピーターやグランドソネリー搭載の超高級腕時計が次々と発表される。ラック・スネイル機構は依然これらの中核技術であり、素材改良や制御微調整など細部の進化はあるものの、その基本原理は17世紀に確立したものと大きく変わらない ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。歴史的遺産であると同時に、現在も生きた技術として時計業界に息づいている。
参考文献:
- ( rackstrike.indd) ( Repeater (horology) - Wikipedia) Edward Barlow(Booth)によるラック・スネイル機構発明の伝統的説(1676年頃)
- ( rackstrike.indd) ラック式時打ちの利点(繰返し可能・常に正確な時報)とカウントホイール式の問題 ( rackstrike.indd)
- ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd) バーローとトムピオンの協力関係・フックの寄与、バーローは繰返し機構を発明しトムピオンがラックと組み合わせた可能性
- ( rackstrike.indd) ロバート・フックの日記(1676年11月10日)「音で時刻を知らせる新機構」をトムピオンに提案
- ( rackstrike.indd) ロバート・フックの日記(1677年6月24日)トムピオン訪問と新機構についての協議
- ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd) John Smith『Horological Dialogues』(1675) における繰返し時計(グランドソネリー)の説明(最古の繰返し機構言及)
- ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd) スウォンジー・トムピオン(1675–1680年頃)の構造:カウントホイール式時打ち+スネイル式繰返しの併用
- ( rackstrike.indd) ヘンリー・ヤング作 初期ラック式長時計の存在(発明史再評価の契機)
- ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist) ( Repeater (horology) - Wikipedia) 1687年クエアvsバーローのリピーター懐中時計特許争い、クエアに軍配(王の裁定)
- ( Legendary Figures of Watchmaking: Edward Barlow — Life on the Wrist) クエアとバーローのリピーター方式の違い(クエアは1ボタン、バーローは2ボタン方式)
- ( Repeater (horology) - Wikipedia) 1710年サミュエル・ワトソンによる世界初の5分リピーターの記録
- ( Repeater (horology) - Wikipedia) 18世紀ロンドンのジョン・エリコットがミニッツリピーターを量産化、Breguetらの改良で19世紀に普及
- ( Repeater (horology) - Wikipedia) 繰返し時計におけるゴング(ワイヤーゴング)の発明(1800年頃スイス、ブレゲら)
- ( Repeater (horology) - Wikipedia) 19世紀の繰返し時計の衰退(ガス灯普及と安価な輸入品により需要減少、贅沢品化)
- (以下、20世紀以降の産業史/特許関連)
- ( Brewster & Ingrahams. Bristol, Connecticut. This is an unusual example in that the movement features cast iron spring holders and a rack and strike striking system. HH-122. | Delaney Antique Clocks) ( Brewster & Ingrahams. Bristol, Connecticut. This is an unusual example in that the movement features cast iron spring holders and a rack and strike striking system. HH-122. | Delaney Antique Clocks) 1843年米Brewster & Ingrahams社のラック式置時計(Kirkの特許ばね使用)の例
- ( 1498398005394696179-01614165) ( 1498398005394696179-01614165) 1927年米国特許1614165号(Frank Wehirle、ラック停止ピン改良)
- ( Striking Clock) ( Striking Clock) 1936年米国特許2038965号(Paul Stephenson、ラック式時半打ち改良)
- (技術詳細関連)
- ( rackstrike.indd) ( rackstrike.indd) ラック・スネイル機構の基本構造(ギャザリングパレット=一本歯ピニオンがラック歯を一枚ずつ集め、一打ずつ鐘を鳴らす)
- ( rackstrike.indd) ラック落下→パレット回転→一歯ごとに一打→ラック停止までの一連の動作
- ( rackstrike.indd) ラック歯形・パレット形状の改良(鋸歯状歯先、鋭角パレット)
- ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) 時打ち用スネイルカム(12段、30°刻み)の構造説明
- ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) 四半刻用スネイルカム(4段)の構造とラックの動作説明
- ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ミニッツリピーターにおける時・刻・分の打刻順序(12:59の例で32回打ち)
- ( ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) 現代の腕時計でも基本原理が18世紀と変わらないこと(3つのスネイルカムの活用)
- ( 「デシマル式」のミニッツリピーターとは何ぞや?〖超弩級 複雑腕時計図鑑〗 | MEN’S EX ONLINE | ) ランゲ&ゾーネ「Zeitwerk Minute Repeater」(2015年、デシマル方式)の紹介(デジタル表示ディスクとラック・スネイル機構の融合)
- ( ヴァシュロン・コンスタンタン 見る者を唸らせ、釘付けにするメティエ・ダールの極み | 高級腕時計専門誌クロノス日本版 [webChronos]) ヴァシュロン・コンスタンタン超複雑時計の例(5ハンマー4ラックでビッグベンの音を再現)
- ( Repeater (horology) - Wikipedia) 繰返し時計が現代では愛好家向けの高価な希少品となっている旨の記述(機械式時報の文化的価値)