ラック・スネイル機構

ラック・スネイル機構

ラック・スネイル機構(rack-and-snail striking)は、時計が示す時刻をカムの形から読み取り、その時刻に対応する回数だけ鐘やゴングを鳴らす機械的な計数機構である。段差を持つスネイルと、歯を持つラックが組み合わされる。スネイルが「何回鳴らすか」を設定し、ラックが打撃の進行に伴ってその回数を消化する。時打ちクロックだけでなく、操作した時刻を音で知らせるリピーターにも応用される。ただし、スネイルを使うリピーターがすべて、ラックを一歯ずつ戻す同じ構造を持つわけではない。1 2

定義と報時機構の中での役割#

ラック、スネイル、打刻輪列#

スネイル(snail)はカタツムリの殻を思わせる段付きカムで、フランス語では limaçon と呼ぶ。時間を読む通常の時スネイルは12段を持ち、時針の駆動系と対応している。ラック(rack、仏語 râteau または crémaillère)は歯を並べた部品だが、時計では必ずしも直線状の棒ではなく、軸を中心に動く歯付きの扇形部品も含む。ラックの尾部、または別体の探りレバーがスネイルに当たり、ラックの動ける範囲を決める。2 3

通常のラック式時打ちでは、ラックを打撃ごとに一歯ずつ戻すギャザリング・パレット(gathering pallet、歯集めの爪)と、戻した位置を保持するラック・フックが働く。ハンマーを持ち上げるピンやカム、打刻輪列を停止・解放するレバー、打つ速さを整えるフライなども必要である。ラックとスネイルだけでは、鳴り始める時刻、音程、打撃間隔、動力の供給まで決められない。1 4

この区別は、時計の「精度」を考える際にも重要である。表示時刻が進んでいれば、機構はその進んだ表示に対応する打数を設定する。正しい打数を読むことと、正しい時刻を刻むことは別の性能である。また、脱進機や振り子・テンプは時計の進み方を制御するのに対し、報時用のフライやガバナーは、短時間作動する打刻輪列の速度を制御する。2 4

カウントホイール方式との違い#

カウントホイール方式では、打刻輪列とともに進む計数輪の切欠きと円周部分に、順番に鳴らす打数を組み込む。時計の表示側とは別に、打刻側が「次は何時の打数か」という順序を保持する。これに対してラック式は、報時の開始時に表示側につながるスネイルを読み直すため、前回の打刻が途中で止まった場合にも、その停止だけを理由として次の打数の順序がずれ続けることを避けられる。1 4

18世紀の『百科全書』の「Sonnerie」は、正時のみの計数輪なら1〜12の総和で78打、各半時にも1打する方式なら90打を一周期として、歯車比や切欠きを説明している。これは一つの時刻を直接読む仕組みではなく、打つべき系列を輪の周囲に配置する設計である。一方「Répétition」では、時スネイルと四半刻スネイルを読んで、要求された時点の時と刻を鳴らす仕組みが説明される。3 4

ラック式も、表示との不一致や故障を完全に排除するものではない。スネイルと時針の位相がずれる、ラックが十分に落ちない、保持爪や歯集めが正しく作用しない、といった場合には誤報時が起こり得る。利点は計数の参照先を表示側へ結び付けることであり、部品の破損まで次の正時に自己修復する性質ではない。1 5

時打ちの構造と動作#

待機、読み取り、歯集め、停止#

ここでは、スネイルがラックの開始位置を決める、後世に一般化した時打ちクロックの構成を説明する。初期作品には、終了位置をスネイルで決める構造もあるため、すべての時代・時計にこの順序を当てはめることはできない。1

段階主な動作部品の役割
待機ラックは所定の戻り位置に保持され、打刻輪列は停止しているラック保持と輪列のロックは別の機能を担う
準備表示側のカムやピンが解放レバーを動かす打刻輪列を予備作動させ、報時開始まで待たせる構成もある
読み取りラックの保持が外れ、重力またはばねの力で尾部がスネイルへ動く当たった段の位置が、戻すべきラックの歯数を決める
打刻輪列が回り、ハンマーを持ち上げて放し、鐘を打つ動力は重錘、ぜんまいなどから供給される
歯集めギャザリング・パレットがラックを一歯分ずつ戻す保持爪が、次の歯集めまでラックを戻した位置にとどめる
停止所定の歯数を消化すると停止部品が輪列をロックする次の報時まで待機する

動作の要点は、最初にスネイルで設定した移動量を、その後の歯集めで減らしていくことにある。パレットが一歯を持ち上げた後にラックが毎回元の読取り位置まで落ち直すなら、回数を消化できない。保持爪はこの逆戻りを防ぐ。また、通常の構成ではスネイルに当たるのは開始時の尾部であり、ラックを戻し切った際の停止は輪列のロックにより行われる。1

打刻輪列のギヤ比とハンマーの持上げを対応させれば、パレットの一回転・一歯の歯集めと、一回のハンマー打撃を結び付けられる。ただし、パレットとハンマーが同じ部品という意味ではない。1936年の電気時計特許には、ハンマーを動かす部品からギャザリング・レバーを動かしてラックを戻す構成もあり、歯集めの駆動関係には変種がある。1 6

スネイルの段差と打数#

通常の時スネイルでは、探りが当たる半径が大きい段ほどラックの移動は小さく、1時に対応する。最も小さい半径の段では移動量が大きく、12時に対応する。『百科全書』のリピーター説明も、大きい半径なら1打、小さい半径なら12打とする。単に「浅い」「深い」と呼ぶより、半径とラックの移動方向を示した方が、図面を読む際の誤解が少ない。3

12段という数は、12時間を12個の打数へ変換するためのものである。時針と同じように連続回転するスネイルのほか、12歯の星形車とジャンパーで毎正時に一段進むスネイルもある。後者では、一時間の間は同じ段を安定して読むことができる。時スネイルが12時間で一周期することと、常に一定速度で回転することは同義ではない。3 7

段差の高さを、ラックの一歯の直線ピッチとそのまま等しくすればよいわけでもない。ラックが軸の周りを動くと、探りの接点と歯列では移動する半径や方向が異なる。設計で必要なのは「隣り合う二段を読むと、歯集めが消化する歯数が一つ変わる」という関係である。カムの段面、探りの長さ、ラックの支点、パレットの位置を合わせて決める。この説明は部品の運動関係からの幾何学的な整理であり、特定時計の寸法や加工公差の数値ではない。1 5

通常のカムで12から1へ切り替わる場所は、大きな段差になる。探りがその段差に押し付けられたまま針を動かすと、部品の変形や停止を招き得るため、接触ピンを逃がしたり尾部を柔軟にしたりする安全構造が重要になる。初期のスウォンジー・トムピオンとヘンリー・ヤングの例では、通常と逆向きのスネイルが用いられ、探りが常時接触していても大きな段差から落ちるようにしている。1 5

リピーター、四半刻、音響への応用#

三つの時間情報を読む#

一般的な四半刻式ミニッツリピーターは、操作した時刻を時、経過した四半刻、最後の四半刻からの分という三つの値に分ける。時を低音で1〜12回、四半刻を二音の組で0〜3組、残りの分を高音で0〜14回鳴らす。12時59分なら、12打、二音3組で6打、14打の合計32打である。これは時計が59分を測定する精度の式ではなく、その表示をどのような音の列に符号化するかの規則である。8

分針側につながる四半刻スネイルは、一時間の中の0、1、2、3刻を区別する。分スネイルは四半刻の中の残り分を読むため、通常の構成では四つの腕を持ち、それぞれに14分を読む段が並ぶ。「分用のカムが一周に14段だけある」と考えると、一時間に四度必要な読取りを説明できない。US7773463B2の実施例も、四腕の分スネイル、四半刻スネイル、12歯の星形車に載った時スネイルを説明している。7 8

報時の途中でカムが動くと、最初に読んだ時と後から読む分の対応が変わり得る。四半刻が切り替わる境界にも、探りが急な落差に入り込む問題がある。そのため、伝統的な構成にはサプライズ(surprise)と呼ぶ補助部品が使われる。『百科全書』は時の星形車を進める仕組みと四半刻の読取りを関連付け、現代特許も分の探りが切替点で直接ゼロ分の位置へ落ちることを避ける補助部品を説明する。ただし、サプライズの対象や動作は構成により異なる。3 7

US311270Aの1885年の案では、中心軸から離れた四半刻スネイルを別の歯車列で動かすことで、通常の配置で必要だったサプライズを省く構成を示している。このように、一つの部品名が現れないことだけで、境界の読取り対策が存在しないとは判断できない。9

自動打刻と任意の繰返し#

リピーターは使用者が要求した時に鳴る機能であり、ラックはその中で使われる計数部品である。グランドソネリーは正時と四半刻の到来で自動的に時・刻を知らせる機能で、さらに任意のリピーターを併設する場合もある。自動打刻、任意起動、打数の読取りは、分けて考える必要がある。スウォンジー・トムピオンのように、通常の時打ちがカウントホイール、繰返しがスネイルを使う別系統という時計もある。1 3

操作が不十分でも鳴り始める古いリピーターでは、探りがスネイルまで達せず、少ない回数で報時してしまう。『百科全書』はこの問題を、引き量が十分な場合だけ報時を許す tout ou rien(全か無か)の機構と比較している。読取りの完了と作動の許可を連動させる考え方は、カムの段数だけでなく、操作手順を含む報時の信頼性を左右する。3

打数と音色を分けて考える#

ラックが正しく数を設定しても、聞こえる音の明瞭さは保証されない。ハンマーがゴングに当たった後に離れず振動を抑える、反動で二度触れる、複数の音が重なる、といった問題は、打数の設定とは別に対策を必要とする。音程と余韻には、ゴングの形状、支持、ハンマーの性質、ケースとの組合せが関わる。時計全体の音響性能を、スネイルの材質だけから予測することはできない。10 11

ブレゲの公式史は1783年に、鐘の代わりにばね状の金属板を打つリピーターを作り、初めは直線状だった部品を、その後ムーブメントの周囲へ曲げたとする。ゴングによる薄型化は、何回鳴らすかを決める機構の発明とは別の改良である。現代のランゲの資料も、ゴングを手で曲げて調律し、ハンマーやケースと合わせて調整する工程を説明している。10 11

成立史と具体的な時計#

単独発明説と史料の限界#

ラック・スネイルの発明は、伝統的にはエドワード・バーローと1676年に結び付けられてきた。しかし「繰返し時計を考案した」という史料記述と、「一歯ずつ歯集めするラック式時打ちを発明した」という主張は区別しなければならない。1696年のウィリアム・デラムの記述を検討したJohn A. Robeyは、その章が繰返しを扱い、ラック式時打ちを記していない点を指摘した。バーロー、トムピオン、ニッブ、フックの寄与を検討しつつ、一人を確実な単独発明者とすることを避けている。1

1675年のJohn Smith『Horological Dialogues』には、四半刻の自動打刻に加え、別種の繰返しの説明がある。Robert Hookeの日記の1676年11月10日と1677年6月24日の記述は、トムピオンとの報時装置に関する接触を示すが、完成したラックの図面や発明の譲渡記録ではない。誰がどの部品を最初に作ったかを、日記の短い語句から確定することは難しい。1

1687/88年2月と記録されるバーローの独占特許申請をめぐっては、クエアの一つの操作で時と四半刻を鳴らす方式と、バーローの別々の操作を要する方式が比較された。『百科全書』も王がクエアの方式を好んだと記す。ただし、方式が評価されたことと特許が授与されたことは別であり、Robeyの検討では両者いずれにもこの特許は授与されていない。この申請は繰返し時計を対象とするもので、ラック・スネイルそのものの成立を証明する特許ではない。1 3

初期現存品から分かる構造の多様性#

スウォンジー・トムピオンは約1675〜1680年と推定される無番号のブラケット時計で、通常の時打ちにカウントホイールを用い、別にスネイルで繰返しを制御する。ギャザリングされるラックは用いない。二組の6段で時間を読むことも、後世の通常の12段・一歯一打の構成と異なる。現存例の年代は様式などからの推定であり、完成年月日が記録されているという意味ではない。1

約1680年のトムピオンのCastlemaine/Tulip/Sussex系列は、ギャザリングされるラックと固定ラックを別に持つ。歯集め中の逆戻りを固定ラックに掛かる爪で防ぎ、探りがスネイルに達する位置まで集めることで打数を制限する。ここではスネイルが終了位置を決めている。後の通常方式は、スネイルを開始位置の読取りに使い、別々のラックや複雑な保持部品を整理した。初期の二ラック方式を、通常の落下量設定方式と混同しないことが重要である。1

Robeyが検討したヘンリー・ヤングの8日巻きロングケース時計は、文字盤とケースから約1680〜1685年と推定される。常時スネイルに接触するL字レバーと、ラック端の階段状部分を組み合わせて落下量を決める。論文で当時記録された最初期のラック式ロングケース時計とされるが、これをあらゆるラック式時計の最初の発明品とすることはできない。現存する特殊な方式は、単純な一方向の進歩史だけでは捉えにくい。1

18世紀の『百科全書』は、紐の引き量でばねを蓄勢し、スネイルに達したラックの移動量に対応してピン車がハンマーを動かす、フランス式リピーターを説明する。これは、ラックを毎打撃一歯ずつ集める通常の時打ちクロックと同一の動作ではない。ラック状部品、スネイル、繰返しという語がそろっていても、どの部品が動力を巻き、何が打数を制限するかを追う必要がある。3

分報時への発展#

分まで鳴らすリピーターの初出も、単純に「18世紀中頃のロンドン」と区切れない。Sebastian Whitestoneの2010年の研究は、Benedikt Fürstenfelderの署名を持つドイツの時計について、四半刻の中の1〜14分を示す文字盤と残存機構を検討した。著者は18世紀初頭のフリートベルクにおける分報時を支持し、現存品が失われたり後に改造されたりすることが、優先権の判断を難しくすると論じる。確実な製作年月日や単独発明者が決着したとするより、実物の構造と帰属を比較する研究として読むべきである。12

一方、1708〜1710年頃のダニエル・クエアの銀製リピーターはScience Museum GroupのClockmakers’ Museumに現存する。記録番号125、ムーブメントの署名は「Daniel Quare London 722」で、ヴァージ脱進機と繰返し機構を持つ。これは具体的な繰返し時計の現存資料であるが、収蔵記録の記述だけから分報時や内部ラックの構成を追加して断定することはできない。13

産業化と置時計の実例#

約1843年のBrewster & Ingrahams製置時計HH-122について、Delaney Antique Clocksは、地板間にラック・スネイル式打刻を備え、背板のワイヤーゴングを毎正時に打つと記載する。真鍮の歯車とローリング・ピニオン、メーカー名を打刻した前地板、Charles Kirkの特許に基づく鋳鉄製のばね保持部が説明される。工業生産された置時計にも採用された具体例であり、ラック方式を高級リピーターだけの専用技術と見ることはできない。14

据置きチャイム時計の整備例として、Steven G. Conoverは1985年のHorological TimesでWinterhalder/Colonialのロッド・チャイム・ムーブメントを報告した。前面の部品表には時車、スネイル、ラック、ギャザリング・パレット、ラック・フックが示される。ラックの尾部は予備作動の時に補助部品へいったん乗り、正時へ近づくにつれてその縁を滑り降りるため、スネイルへの急な落下音を和らげる。報時の回数だけでなく、準備動作の静粛性も設計対象である。21

この現物解説の「約1843年」は販売者による年代判断で、工場台帳の製造日ではない。また、Kirkの特許として述べられるのはばね保持部であり、ラック・スネイルの基本原理全体を同社が発明・特許化したという意味ではない。一例から、当時の米国時計の採用率や全国の普及時期を算出することもできない。14

材料、製造、性能と保守#

接触と幾何形状の調整#

部品の加工では、カムの段面、探りの先端、ラックの歯形、保持爪、パレットを一つの組として扱う必要がある。段面が設計位置にあっても、探りが角に乗ったり、ラックの軸に遊びがあったりすれば、読取り結果が一歯分変わり得る。歯集めには確実な接触が必要だが、保持爪がラックを解放する段階では、同じ接触が妨げにならないことも必要である。このため、部品単独の形状検査と、組み立てた後の動作確認は異なる検証になる。1 5

真鍮は時計の地板や歯車に広く使われ、切削性と耐食性が材料選択上の利点となる。一方、ばねや繰り返し接触する部品には別の機械的要求がある。ラック、スネイル、探り、ゴングがすべて同じ素材であるとも、すべての時計のスネイルが真鍮であるともいえない。HH-122で確認できる真鍮歯車、鋳鉄ばね保持部という具体例と、時計材料一般の説明は区別する。14 15

真鍮部品の加工・打抜き後の残留応力、表面処理、鋼より低い機械的強度は、時計材料を扱うHoropediaの解説が指摘する性質である。ただし、そこに載る一般的な材料値を、17世紀の特定ラックの材質証明や現代製品の耐久試験結果に転用することはできない。公差、潤滑量、熱処理条件を数値で説明するには、その時計に対応した製作・整備資料が必要になる。15

ラック式の音数は、連続した読取り位置を整数の歯数へ変換することで決まる。その意味では離散的な情報処理と比較できるが、現代の電子回路と同じ論理素子からなるという意味ではない。また、段面の変位が少し増減することが、そのまま秒単位の誤差になるわけでもない。閾値を越えて別の歯数を設定してしまうと、音で示す時刻の値が変わるという種類の誤差である。3 7

必要な動力と速度制御#

報時には、ハンマーの持上げ、歯集め、軸や接点の摩擦、ガバナーの駆動に必要な仕事がある。ラックとスネイルはその仕事を供給する動力源ではなく、動力がどの回数・順序で使われるかを設定する。したがって、読取りが正しくても打刻用の動力が不足すれば、最後まで鳴らない。打数が多い12時59分などは、短い報時より長時間輪列を動かすことになる。4 7

古典的な報時輪列のフライは、輪列が速く回りすぎないようにする。現代の遠心式ガバナーも、音の間隔を整える役割を持つ。2025年のランゲL122.2についてメーカーは、報時中のガバナーが毎分2,000回転以上で回り、打鐘の均一なリズムを保つと説明する。この数値はそのガバナーの回転速度であり、ハンマーが毎分2,000回鐘を打つという意味ではない。4 11

時計の歩度、音数、打撃間隔、音量・余韻、操作に対する安全性は、それぞれ別に評価されるべきである。ラック・スネイルを採用したという情報だけから、日差、音量、消費エネルギー、耐磁性能、温度範囲や寿命を一括して優れていると判断することはできない。ここで挙げる具体例にも、それらすべてを共通条件で比較した実測値はない。

安全性と検査の考え方#

12から1、四半刻の切替、時刻合わせは、探りとカムの相対位置が大きく変化する条件である。読み取る方向には確実に位置を止め、別の方向からの負荷には逃げる構造は、この要求に応える。1927年のWehrleの特許はその好例で、同じピンについて、ラックの落下を制限する方向の剛性と、時刻合わせでスネイルに押される方向の可動性を分けた。5

Conoverの整備報告は、ギャザリング・パレットと打刻停止カムが同じ軸にあることを指摘する。また、停止位置でハンマーの尾部が持上げ用の星形車に掛かったままだと、毎回負荷を受けた状態で輪列が始動するため、その位相を確認している。これは単に「摩擦が少ない方がよい」という一般論ではなく、停止時の部品位置が始動負荷に影響する具体例である。21

製品の使用者が針を逆回しできるか、報時中に時刻を合わせられるかは、その製品の安全装置による。ある特許に逃げ構造があることは、ラック式の時計すべてをどちら向きにも安全に回せるという保証ではない。現代のツァイトヴェルクでは、報時中にリューズを引けなくし、数字ディスクの切替を報時の終了まで待たせる、別の方法で干渉を防いでいる。5 16

動作の説明から導かれる検査項目は、各時間で所定の歯数を設定するか、保持が逆戻りを防ぐか、最後に輪列が停止するか、時間区分の切替で誤読しないか、音が重複しないか、である。これは機構を理解するための整理であり、個々の古時計の分解・調整手順を指定するものではない。

改良特許を読む#

特許は、発明者が提案した構造と請求した範囲を知る一次資料になる。ただし、特許の出願、公開・授与、製品への採用、量産の開始は別の出来事である。以下の公報も、基本機構がいつ初めて存在したかを直接決める資料ではなく、後代の具体的な課題と解法を示す。

1885年:リピーターの追加機構#

US311270Aは1885年1月27日に公開・授与された「Repeating attachment for watches」である。公報は、ムーブメントを大幅に変更せず、裏側とケース蓋の間の空間にリピーターを置く案を示す。ラックの面内運動に、地板へ近づく・離れる運動を重ね、時・刻・分の打撃部品との係合を切り替える。製造しやすさや安価な時計への適用は発明者の目的として述べられており、実際の販売価格や量産実績の証明とは区別される。9

1927年:停止ピンを別方向へ逃がす#

Frank X. WehrleのUS1614165A「Rack-and-snail strike clock」は1926年5月25日出願、1927年1月11日公開・授与で、Seth Thomas Clock Co.への譲渡を明記する。半球状の基部を持つ停止ピンを半球状の受けと溝に載せ、ばねアームで保持する。溝の側壁が横方向の揺動を制限し、別の方向の揺動を許すため、通常のラック停止機能とスネイルを両方向へ動かす際の逃げを両立させる。5

ここで止めるのは、読取り時のラックの落下である。打刻が全部終わった後に輪列を止めるロック部品と同じ機能ではない。公報の請求項1〜5は、この停止アーム、揺動ピン、受け、溝、ばねの組合せを記すもので、既知のラックとスネイル全体を新発明として請求するものではない。5

1936年:同期電動機と機械的な計数#

Paul A. StephensonのUS2038965A「Striking clock」は1932年8月8日出願、1936年4月28日公開・授与である。実施例の駆動源は同期電動機で、表示と報時を同じ駆動源で動かす。二つの高さを持つ中央カムが正時と半時の解放を分け、星形車は回転しながら軸方向へ移動して、ハンマー持上げ部品の作用平面に入る。ハンマーの動作はラックの歯集めにも関連付けられる。6

これは「電気時計になれば機械的な打数計算は不要になる」という単純な移行像とは異なる。動力源を電気へ変えても、スネイルによる読取りとラックによる計数を残す設計が可能である。一方、この公報だけでは、その仕組みを搭載した全製品の耐久性や採用台数は分からない。6

2005〜2010年:時・分の歯列を一つの部品へ#

Yves CorthésyとJean-Pierre CharpierによるUS7773463B2は、2005年3月31日を優先日、2006年3月30日を出願日、2010年8月10日を米国の公開・授与日として記録する。時と分の歯列を異なる高さに配置し、間に歯のない区間を設けたラック状部品と、四半刻部品を組み合わせる。一つの部品が進む中で、どのハンマー側のパレットに作用するかを切り替える案である。7

公報は、少ない部品で構成・調整することを目的に挙げるが、それを実測の性能向上や量産成功の事実に置き換えることはできない。改良は段付きカムを廃止するのではなく、既存の時・刻・分の読取りと、歯列から打撃へ伝える部分の構成を組み替えている。21世紀にもラック・スネイルを含む機構の設計が続く具体的な一次資料である。7

現代の作品と継承#

ツァイトヴェルクの十進報時#

2015年に発表されたA.ランゲ&ゾーネのツァイトヴェルク・ミニッツリピーターは、時・10分区間・残り分で報時する。7時52分なら低音7打、二音5組、高音2打になる。表示する時間リングと二枚の分ディスクに接続したスネイルを読むため、針の位置を読む通常の構成とは情報の取り出し方が異なる。メーカーの説明は、12段の時スネイルと、別軸の10分・分スネイルを図とともに示す。16 17

動力は走行用の主ぜんまい香箱から取り、起動時に巻上げ輪列を切り離す。報時中は数字ディスクの切替を遅らせ、リューズを引けなくする。残りのパワーリザーブが12時間未満なら起動を禁止する。これらは、音数を読むだけでは解決しない、読取り中の表示変化と動力不足への対策である。2020年のドイツ語発表は、組立に数か月を要すること、ゴング・ハンマー・ケース・ムーブメントの音響調整も説明する。16 17

ソネリーと音響の発展#

パテック フィリップは1989年のCalibre 89を、33複雑機構を持つ報時時計の復興の節目として紹介している。公式史はその後のStar Caliber 2000、Sky Moon Tourbillon、Grandmaster Chimeも挙げる。これらは報時と他の複雑機構を組み合わせた作品系列であり、メーカーの歴史的な位置付けと、ラック自体の発明史は区別される。22

フィリップ・デュフォーは自身のフランス語の回想で、グランドソネリー・ミニッツリピーター腕時計No.1を約二年半かけて製作し、1992年のバーゼルで展示したと述べる。設計には独学で習得したCADを用いたとする。本人の公開仕様は、沈黙、グランド/プティ・ソネリー、ミニッツリピーターを示す。大手メーカーの量産系列とは異なる、独立時計師による複雑報時の継承例である。23

ヴァシュロン・コンスタンタンは2017年に、同社初のグランドソネリー腕時計としてSymphonia Grande Sonnerie 1860を発表した。727部品のムーブメント、ベゼルによるグランド/プティ・ソネリーの選択、リューズのボタンによるリピーターを説明している。自動報時と任意報時を同じ時計にまとめる作品例であり、部品数だけをラック・スネイルの複雑さと同一視することはできない。18

同社のBerkley Grand Complicationの公式解説は、キャリバー3752にウェストミンスターのカリヨンを備え、5個のゴングと5個のハンマーでビッグベンの旋律を再現すると記す。旋律を奏でる順序制御と、時刻に応じて何回打つかという制御は連携するが、公開された外観や機能一覧だけから内部ラックの枚数を推測することはできない。19

2025年のランゲ・ミニッツリピーター・パーペチュアルは、リピーターと永久カレンダーを統合したL122.2を搭載する。メーカーは、四半刻を鳴らさない時の余分な待ち時間を省く機能、リューズ操作の保護、ハンマーの二度当たりを防ぐハンマーブロッカーを説明する。手曲げ・手調律のゴング、ハンマーの仕上げ、遠心式ガバナーも、現代の報時機構で計数以外の工程が大きな比重を持つことを示す。11

1892年の腕時計用リピーターについては、オメガが自社史上の最初のミニッツリピーター腕時計として紹介する。2022年の同社Chrono Chimeは、さらにクロノグラフで測った時間を音にする作品として発表された。現在時刻の報時と経過時間の音表示は別機能であり、後者の構造をそのまま古典的ラック式時打ちとみなすことはできない。20

ラック・スネイルの継承を理解する要点は、段付きカムによる値の読取りと、歯列による打数の制御という考え方が、さまざまな動力源・表示方式・音響設計へ組み込めることである。基本要素の長い継続と、個々の機構がまったく変化していないという主張は異なる。現代例の価値は、数百年前と同じという一言より、何を残し、どの干渉や音響上の問題を別の部品で解決したかを追うことで明らかになる。

年表#

時期資料で確認できる出来事と意味
1675年Smith『Horological Dialogues』が自動報時と別種の繰返しを記す。Robeyの引用・検討による。1
約1675〜1680年スウォンジー・トムピオン。カウントホイール式時打ちとスネイルを用いる別系統の繰返し。1
1676年頃後のDerhamがバーローの繰返し発明をこの時期と記す。ラック式の確定発明年とは区別。1
1676年11月10日Hookeの日記に、トムピオンと音による任意時刻表示を話した記録。1
1677年6月24日Hookeの日記に王の打刻時計・鐘などの相談。部品同定には解釈の余地がある。1
約1680〜1685年ヘンリー・ヤングのラック式8日巻きロングケース時計の推定年代。1
1687/88年2月バーローの繰返し時計独占特許申請をめぐる争い。クエアの評価と特許授与は区別される。1
1696年Derham『The Artificial Clock-maker』初版。成立から約20年後の記録。1
1708〜1710年頃クエア722番の銀製繰返し時計。Clockmakers’ Museumの現存品記録。13
18世紀初頭Fürstenfelderらの分報時時計について、後の実物研究がこの時期への帰属を論じる。12
1728年『百科全書』はLe Roiによる、背面に部品を配置した全か無か式リピーターの設計をこの年とする。3
18世紀中頃『百科全書』が時・刻のスネイル、計数輪、操作不足の対策を具体的に説明。3 4
1783年ブレゲの公式史が、鐘からばね状ゴングへの移行を記す。10
約1843年Brewster & Ingrahams HH-122のラック式置時計。販売者の現物解説に基づく推定年代。14
1885年1月27日US311270A公開・授与。ムーブメントの外側へリピーターを配置する提案。9
1892年オメガが自社の最初のミニッツリピーター腕時計として紹介する年。20
1926年5月25日/1927年1月11日WehrleのUS1614165A出願/公開・授与。ラック停止ピンの逃げ構造。5
1932年8月8日/1936年4月28日StephensonのUS2038965A出願/公開・授与。同期電動機とラック式計数を組み合わせる。6
1985年8月ConoverがWinterhalder/Colonialロッド・チャイム機構の整備・ラックの静かな下降を報告。21
1989年パテックが33複雑機構のCalibre 89を発表。メーカー史上の報時復興の節目。22
1992年デュフォーがグランドソネリー・ミニッツリピーター腕時計No.1をバーゼルで展示したと回想。23
2005年3月31日〜2010年8月10日US7773463B2の優先日から米国公開・授与まで。時・分の歯列を組み合わせる提案。7
2015年/2020年4月24日ツァイトヴェルク・ミニッツリピーター初出/ホワイトゴールド版発表。17
2017年1月16日ヴァシュロンのSymphonia Grande Sonnerie 1860公式発表。18
2022年10月26日オメガがChrono Chimeと経過時間の音表示を公式に紹介。20
2025年4月1日ランゲがミニッツリピーター・パーペチュアルを発表。11
2026年メーカー公開資料で、スネイルを用いた読取り、機械的報時、安全・音響設計が説明されている。16 19

史料から言える範囲#

初期現存品の製作年代、単独発明者、最初の量産化は、同じ精度で確定しているわけではない。時計の様式からの推定年代、後代の著者が引用した日記、発明者の特許説明、メーカーの製品発表を、それぞれの資料の性質に応じて読む必要がある。17世紀の発明特許公報をラック・スネイルの起源証明として示せるわけではなく、ここで具体構造を追える特許は後代の改良である。1 5 6 7

発明の優先権が未確定でも、機構の働きは具体的に説明できる。表示側から値を取り出すスネイル、その値に応じて動く歯列、保持と停止、安全装置、動力と音響の各機能を区別することで、初期クロックと現代の複雑腕時計を、共通点と相違点の両方から理解できる。

参考文献#

以下は2026年10月14日に本文を確認した資料である。図版は転載していない。

  1. John A. Robey, “Who Invented Rack-and-Snail Striking? The Early Development of Repeating and Rack Striking”, Antiquarian Horology, 2005年3月。公開PDF pp.1–18、特にpp.2–8、14–18。初期時計の実物調査と歴史史料の検討。公開論文

2. Horopedia, “Mécanisme de sonnerie avec délai à râteau”。フランス語の定義・部品・動作。発明者の伝統的帰属は文献1の検討と区別する。解説

3. Diderot・d’Alembert編、『百科全書』初版「Répétition」時計学部分。18世紀本文のWikisource転写。Quare/Barlouの比較、時・刻のスネイル、全か無かの機構。原文転写

4. 同「Sonnerie」、第15巻pp.359–361。計数輪、輪列、ハンマー、予備作動、78/90打の説明。Wikisource転写。原文転写

5. Frank X. Wehrle, US1614165A, “Rack-and-snail strike clock”, 1926年5月25日出願、1927年1月11日公開・授与。明細書および請求項1〜5。公報

6. Paul A. Stephenson, US2038965A, “Striking clock”, 1932年8月8日出願、1936年4月28日公開・授与。実施例の同期電動機、星形車の軸方向移動、ギャザリング・レバー。公報

7. Yves Corthésy・Jean-Pierre Charpier, US7773463B2, “Timepiece comprising a minute repeater mechanism”, 2005年3月31日優先、2006年3月30日出願、2010年8月10日公開・授与。Counting Element、Gongs and Pallets、Set of Striking Parts、動作説明と請求項。公報

8. 菅原茂「ミニッツリピーターとは? その歴史と代表的モデル」、webChronos、2019年8月28日。時・刻・分の音数とスネイルの説明。記事

9. US311270A, “Repeating attachment for watches”, 1885年1月27日公開・授与。明細書の配置、二方向のラック運動、サプライズ省略と請求項。公報

10. Breguet, “Invention du ressort-timbre et dessin des aiguilles et chiffres Breguet”。1783年のゴングについてのフランス語メーカー史。公式史

11. A.ランゲ&ゾーネ「ミニッツリピーター・パーペチュアル」、2025年4月1日。日本語製品発表、報時機構・音響・L122.2の工程説明。公式発表

12. Sebastian Whitestone, “Minute Repeating in Tompion’s Lifetime”, Antiquarian Horology, 2010年12月、pp.525–531。Fürstenfelder時計の文字盤・残存機構と帰属の検討。論文

13. Science Museum Group / The Clockmakers’ Museum, “Silver repeating watch by Daniel Quare”, Clockmakers’ Museum No.125、1708〜1710年の収蔵品記録。現物記録

14. Delaney Antique Clocks, Brewster & Ingrahams、HH-122。販売者の現物説明、約1843年、地板間ラック式・材料・刻印。現物解説

15. Horopedia, “Brasses”。時計材料一般の加工・表面処理・用途・限界。特定のラック材質証明ではない。材料解説

16. A. Lange & Söhne, “The Decimal Minute Repeater”。スネイルの表示への接続、動力、31打、表示切替・操作・動力不足の保護。公式技術解説

17. A. Lange & Söhne, “Zeitwerk Minutenrepetition”, 2020年4月24日。ドイツ語発表、2015年初出・2020年版・組立と音響調整。公式発表

18. Vacheron Constantin, “Symphonia Grande Sonnerie 1860”, 2017年1月16日。公式動画の製品説明文。公式発表

19. Vacheron Constantin, “La Berkley Grand Complication”。フランス語公式解説「Grande sonnerie et alarmes」、5ゴング・5ハンマー。公式解説

20. OMEGA, “World’s greatest Olympian unveils a world’s first in watchmaking”, 2022年10月26日。1892年腕時計へのメーカー帰属、Chrono Chimeの経過時間報時。公式発表

21. Steven G. Conover, Winterhalder/Colonialロッド・チャイム・ムーブメントの整備記事、Horological Times, 1985年8月、印刷pp.18–21(PDF pp.20–23)。部品表、Strike Adjustments、ラックのlet-downと停止位相。整備報告

22. Patek Philippe, “The Patek Philippe Sound”。Calibre 89と後代の報時時計、音数とゴングのメーカー解説。公式解説

23. Philippe Dufour, “Mes créations”。本人のフランス語回想、グランドソネリー腕時計No.1と仕様。本人の記録