回転瑪瑙受石

回転瑪瑙受石

軸端を受ける石をゆっくり回す#

回転瑪瑙受石(rotating agate endstone)は、テンプ軸の下端を支える受石に瑪瑙の円盤を使い、その円盤を時計の輪列からゆっくり回転させる機構である。ジョージ・マーゲッツの一部のクロノメーターに見られ、軸端が同じ場所を繰り返し擦ることで生じる摩耗を、より広い表面へ分散しようとする工夫だった。1

Science Museum Groupの8日巻海上クロノメーター1920-568は、材料欄に下側受石の回転円盤を瑪瑙と記録している。この部品は、ガンギ車の歯を止める爪石でも、テンプへ衝撃を伝えるローラーでもない。テンプ軸の端を受ける軸受部品である。2

なぜ軸の端で摩耗が問題になるか#

横方向の支持と軸方向の支持#

時計の回転軸では、穴石がピボットの横方向の位置を保ち、受石が軸端にかかる軸方向の荷重を受ける。水平に据える箱型クロノメーターでは、テンプ軸が上下方向に配置されるため、下側受石はテンプなどの重量を受ける部位になる。Gouldは、初期の摩擦ローラーが横方向の摩擦には多少役立ち得ても、水平に保つ箱型クロノメーターで重要な軸端摩擦の対策にはならないと説明する。1

穴と軸端を同じ「軸受」の一語でまとめると、回転受石の狙いを見失う。テンプ全体をローラーで支えること、軸端を硬い固定石で受けること、受石の接触位置を移動させることは、それぞれ異なる対応である。マーゲッツの工夫は最後の方法であり、輪列によって支持面を動かす点に特徴がある。1

摩擦を小さくすることと、摩耗を散らすこと#

Gouldはこの装置の第一の目的を、摩擦の低減ではなく、その摩擦による摩耗の分散とする。テンプ軸が石に触れている以上、接触荷重や相対運動は残る。しかし接触する石の部分が時間とともに変われば、同じ局所に摩耗が集中するのを避けられる。1

これは「摩擦ゼロ」や「永久に磨耗しない」という説明ではない。石の面が傷つく、軸端が摩耗する、潤滑状態が変わるといった問題がなくなるわけではなく、円盤を駆動する側にも別の歯車・軸受が必要になる。装置を増やして一つの損耗の集中を避ける、という機械的な交換条件がある。1

機構と回転周期#

大車から分けた輪列#

Gouldが記す構成は、直径約1インチの平らな瑪瑙円盤を、時計の大車から分岐した別の輪列で回転させるもので、回転は6時間に一回である。1インチは25.4mmだが、原著が「約」とするため、実物の精密測定値25.400mmへ読み替えることはできない。1

この円盤の回転はテンプの振動とは別の運動である。テンプはひげぜんまいとともに速く往復し、石は輪列に従って一方向へゆっくり進む。受石を回すためにテンプ自身から大きな動力を取り出す構成ではなく、時計の動力を輪列から別に配分する。1

6時間周期の意味を数量で見ると、回転角速度は次のようになる。これはGouldの周期をSI単位へ換算したもので、現存個体の実測ではない。

\[ \begin{aligned} \omega&=\frac{2\pi}{T}\\ T&=6\times3600\ \mathrm{s}\\ \omega&\simeq2.91\times10^{-4}\ \mathrm{rad/s} \end{aligned} \]

ここでTは円盤の一回転に要する時間、ωは円盤の角速度である。一定速度で回るという仮定のもと、石の上の接触点が回転中心からρだけ離れていれば、円盤側の局所速度はv=ωρとなる。ρは接触点の位置を表し、円盤の外半径と同じとは限らない。資料に接触点の半径がないため、摩耗軌跡の幅や摩擦仕事の数値までは求められない。1

接触が円盤の回転中心にだけ起きるなら、回転しても接触位置は広く移動しない。したがって摩耗を分散するには、回転中心と軸端の接触位置の配置が重要となる。この点は回転面の幾何学からの説明であり、公開記録から特定個体の偏心量を復元したものではない。

「全て6時間」ではない#

1975年のClockmakers’ Companyコレクションのカタログは、マーゲッツに帰属するNo.607の8日巻時計について、瑪瑙円盤を大車と歯車でつなぎ、5時間に一回転させると説明する。Gouldの6時間という記述と、別のカタログにある個別作品の説明は分けて扱う必要がある。双方の記録だけでは、同一個体の測定差、改造、誤記のいずれかと決められない。1 3

一方、Science Museum Groupの1920-568は、回転する瑪瑙製下側受石の存在を示すが、現行本文に回転周期や輪列の歯数はない。したがって、この個体も6時間あるいは5時間と断定することはできない。「回転瑪瑙受石」という機構名だけで、全作品に同じ減速比を与えることはできない。2

現存作品と資料の帰属#

資料確認できる内容その資料だけでは決められない内容
Gould、1923年、p.232マーゲッツの一部のクロノメーター、約1インチの平円盤、別輪列、6時間周期、摩耗分散という目的記述した全個体の製作者番号、現行収蔵番号との対応、実測した摩耗率
SMG、1920-568ロンドン、1790–1808年、Thomas Williams船長用の8日巻、下側の回転円盤が瑪瑙回転周期、接触半径、歯数、潤滑条件、製作月日
Clockmakers’ Company、No.607マーゲッツに帰属する8日巻、5時間周期の受石円盤SMG1920-568との同一性、全作品の共通周期、帰属を示す完全な製作台帳

SMGの記録には二本の鍵、写真二点、書簡二点が関連資料として記される。これらの存在は確認できるが、書簡の内容が公開説明から分かるわけではない。Williams船長への注文日、引渡日、船上試験の歩度を、書簡が残るという事実だけから復元することはできない。2

Clockmakers’ CompanyのカタログはNo.607について、明瞭な署名が見えず、強い光で文字盤にマーゲッツの名の痕跡が読めるとする。これは現物の帰属判断を含む記述であり、署名が明瞭に残る作品と同じ強さで製作者を確定できるものではない。3

材料と加工から見た課題#

硬い円盤を、平らに支える#

瑪瑙を用いたことはSMGの材料記録とGouldの説明に共通する。ただし、石の色・産地・内部組織・硬度の実測値まで示されているわけではない。回転する支持面として機能させるには、平面の仕上げ、円盤の保持、軸端の高さを一定に保つ取付けが重要になる。1 2

ここでいう平面度や振れは、構造から要求される条件である。円盤が傾いたり上下に振れたりすれば、受ける軸の位置や荷重も変わり得る。石の表面を動かす利点を得るには、それを回す支持構造も安定していなければならない。当時のラッピング工具、接着法、研磨剤、加工公差は、これらの公開資料から確定できない。

摩耗試験と歩度試験は別の評価#

摩耗が広い面に分散することと、時計の歩度が改善することは同義ではない。歩度にはテンプの振幅、ひげぜんまい、脱進機、温度補償、動力の変化も関わる。回転受石の効果を数量で比較するなら、固定石と回転石について、同じ荷重・接触形状・潤滑条件で摩耗を調べる必要がある。時計全体については、さらに歩度の長期比較が必要になる。

Gouldの記述は目的と構造を説明するが、対照試験の数値を示さない。SMGの現行記録にも摩耗量や日差の保証値はない。したがって「何倍長持ちした」「何秒精度を改善した」といった性能は、これらの資料から導けない。1 2

時計史での位置と年表#

この装置は、硬い受石へ交換するだけでなく、支持面の接触場所を時間とともに変えるという発想を示す。一方で大きな円盤と駆動輪列を必要とし、携帯時計や量産腕時計へそのまま移すには配置上の課題がある。機構の理解に役立つ事例ではあるが、現代の一般的な軸受や耐震装置をこの発明の直接の子孫とする資料的根拠はない。1

時期確認できる展開
1790–1808年SMGがWilliams船長用8日巻1920-568の製作年代として登録する範囲
1923年Gouldが回転瑪瑙受石の構造・6時間周期・摩耗分散の目的を刊行
1975年Clockmakers’ CompanyのカタログがNo.607の5時間周期と帰属判断を記載
2026年10月SMGの現行収蔵記録で、瑪瑙製の回転下側受石と関連資料の存在を確認できる

初製作年、装置の製作数、マーゲッツの全作品への採用範囲は確定できない。原特許の全文も確認できていないため、特許取得や請求範囲を断定しない。技術の実在は現物を管理する所蔵館の記録に、構造と目的はGouldの専門書に、個体差を考える手がかりは後年のカタログに求められる。

参考文献#

オンライン資料の閲覧日は2026年10月13日。後年の専門書の説明、所蔵館の現物記録、ウェブで公開されたカタログ本文を区別する。

  1. Rupert T. Gould, The Marine Chronometer: Its History and Development, J. D. Potter, 1923, pp.231–232。軸方向摩擦、宝石軸受、回転瑪瑙円盤の説明。原紙面画像を確認。
  2. Science Museum Group, Eight-day ship’s chronometer by George Margetts, 1920-568、Pt1–Pt3。年代、発注者、下側受石の材料、関連資料の現行記録。
  3. Cecil Clutton and George Daniels, Clocks and Watches in the Collection of the Worshipful Company of Clockmakers, Sotheby Parke Bernet, 1975, No.607への概説、pp.89–90。公開ウェブ本文で確認。原紙面画像の再確認ができないため、個体の細部や他の収蔵番号との同定には用いていない。