満巻きの後も入力を受け入れる仕組み#
滑りばね(slipping spring)、滑りブライドル(slipping bridle)は、主ゼンマイの外端を香箱内壁へ摩擦で結合し、所定の巻上げ限界を超えると壁に沿って滑らせる部品または端部構造である。主ゼンマイの内端は香箱真へ取り付けられ、外端は香箱へトルクを伝える。外端を完全に固定する代わりに、ばね性を持つ帯状部品を壁へ押し当て、必要な力までは保持し、それ以上では滑るようにする。1
自動巻き時計では、主ゼンマイが満巻きになっても、腕の動きによる入力を止められない。このため滑りばねは、外端の結合を保つ機能と過巻上げを逃がす機能を兼ねる。正常な滑りは故障ではない。一方、低すぎるトルクで滑れば十分なエネルギーを蓄えられず、高すぎるトルクまで滑らなければ保護の目的を果たせない。1 2
「ブライドル」は広く端部の支持や結合部品にも使われるため、すべてのブライドルが滑り式とは限らない。本稿で扱うのは香箱内壁に対して滑る主ゼンマイの結合であり、テンプを調速するヒゲゼンマイや、巻上げ輪列に置く別のクラッチではない。
成立を確かめられる史料#
アドリアン・フィリップの1864年特許#
Adrien Philippeの米国特許US43464Aは1864年7月5日に公告された。外周となる部分を主ゼンマイ本体より厚くし、香箱内壁へ圧力を与え、巻上げ限界を過ぎると壁面を滑る方式を記載する。主ゼンマイを香箱へ鉤で固定しないため、限界を超えた入力でも内部で回り続けられるとしている。3
同特許は満巻きの合図も重視する。壁に溝を設け、外端の突起が溝へ入ると耳や指で感じるクリックを出す。別体の鋼輪へ通常の主ゼンマイを掛ける変種もある。現代の自動巻きだけを目的とした発明ではなく、巻止め装置を省きながら使用者へ巻上げ状態を知らせる構想だった。3
この公報は滑りによる過巻上げ防止が19世紀に具体的に設計されていた証拠である。しかし、公報の日付だけから「世界初の滑りばね」「最初に販売された自動巻き腕時計」を決めることはできない。特許以前の着想、国別の出願、実際の採用品はそれぞれ別に調べる必要がある。
20世紀の結合・製造改良#
Foster H. BrownのUS2617248Aは1948年12月31日出願、1952年11月11日公告で、香箱壁とほぼ全周で接する薄いクラッチシューを記載する。端を突き合わせた輪が壁の円形を保ち、十分な保持力を作る構造である。主ゼンマイが輪の後ろ側から押すように結合すると、輪が広がる自己増力作用も生じると説明される。2
Jean Haueter / VimetalのUS3465514Aは、1967年1月24日を優先日とし、1969年9月9日に公告された。先行する自動巻きでは別体の滑りばねをリベットや電気溶接で外端へ付けるため、軸方向の整列が難しく、結合が外れる問題があると述べる。その解決は、主ゼンマイの帯の外端だけを厚くし、滑りばねと一体にする方法だった。1
動作とトルクの関係#
巻上げから滑り、再保持まで#
- 巻上げ輪列が香箱真を回し、主ゼンマイの内側の巻きを真へ寄せる。滑りばねが壁に保持されるので、外端を基準に主ゼンマイへ弾性エネルギーが蓄えられる。
- 巻きが進むにつれて外端へ作用する力が増える。壁との保持力を超えると、滑りばねが周方向へ移動し、追加の巻上げを逃がす。
- 入力と滑りの繰返しで、主ゼンマイは一定の上限付近に保たれる。巻上げをやめた後は、通常の駆動トルクを保持できる状態へ戻る。
- 走行中、主ゼンマイが香箱へ力を伝え、香箱外周の歯から輪列を駆動する。
これは基本動作を整理した説明で、滑る量、段差の有無、巻上げ回数は香箱と主ゼンマイの設計により異なる。1 2
摩擦クラッチとしての模型#
接触圧をp(Pa)、接触面上の微小面積をdA(m²)、中心からの距離をr(m)、静止摩擦係数をμsとすれば、壁が保持できるトルクの単純な模型は次のようになる。
壁の半径を一定R、接触圧を積分した法線力をNと近似すればMhold ≈ μs N Rとなる。これは摩擦結合を説明する模型であり、特定香箱の設計式や測定値ではない。Brownの特許が説明する保持力の材料・長さ・厚さへの依存を、接触圧と摩擦の関係へ整理したものである。2
実物では、潤滑、表面の溝、ばねの曲率、端の向き、主ゼンマイが押す位置によって圧力分布が変わる。滑り始める前後で摩擦条件も同じとは限らないため、乾燥した単純な摩擦係数を入れただけでは保持トルクを正確に予測できない。設計値の確認には実際の組合せによるトルク試験が必要になる。
巻上げトルクと駆動トルク#
巻くときのトルクと、ほどけて駆動するときのトルクには、巻き間や壁との摩擦による差がある。Brownの特許Fig.11は、巻上げ曲線と駆動曲線を分け、十分な巻上げの後、破損に至る前にクラッチが滑る範囲を示す。滑りばねが「一定トルクを輪列へ供給する装置」だという意味ではない。2
一定の滑り限界を作れても、主ゼンマイがほどければ駆動トルクは変わる。フュゼやルモントワールのように駆動側の出力変化を補償する機構とは、役割が異なる。滑りばねの中心的な働きは、エネルギー入力の上限と外端の結合を管理することにある。
材料、加工、潤滑#
従来型は、弾性を持つ帯を曲げて壁へ押し当て、主ゼンマイとの結合を溶接・リベット・鉤などで作る。主ゼンマイとブライドルの高さの整列が悪ければ、香箱の底や蓋に触れる条件が変わる。US3465514Aが一体化を提案したのは、結合工程の削減だけでなく、整列と接合部の故障を避けるためでもある。1
同特許の一体型では、圧延ロール間隔を帯の送りに合わせて変え、外端を通常部の約1.3–2倍の厚さにする例がある。厚い端部を主ゼンマイの巻き方向と逆に形付け、装着後に壁へ圧力を与える。これはその特許の設計範囲であり、すべての滑りばねに共通する厚さ比ではない。1
潤滑は摩擦を減らすだけの仕事ではない。滑りばねは適切な保持力も必要とするため、香箱壁には制動特性を持つグリースが使われる。Moebiusの公式製品表は8212をアルミニウム壁向けの中程度の制動、8213を真鍮壁向けの強い制動、8217を各種香箱用の軟らかい制動グリースとして区別する。主ゼンマイの巻き同士の潤滑と、壁の摩擦条件の管理を同じ問題と扱ってはならない。4
具体的な油種、量、塗布点、香箱を分解してよいかはキャリバーの整備指定による。材料だけで汎用の塗布量を決めたり、滑りをなくすために任意の接着性を加えたりすることは、設計された上限を変えてしまう。
改良の方向#
一体化と電鋳#
Nivarox-FARのUS9329571B2は、2012年6月28日を優先日とする主ゼンマイの一体ブライドル構造を扱う。フォトリソグラフィで型を作り、電鋳で主ゼンマイの帯と厚い外周部または別方向へ延びるブライドルを同時に形成する。従来の小さな部品を製造して接合する工程を減らす狙いを持つ。5
同公報は材料例としてニッケル・リン合金を挙げるが、記載された全構造が製品へ採用された証拠ではない。また「一体型」だから必ず外周を滑る方式とは限らず、主ゼンマイの移動を制限するブライドルも特許の対象に含まれる。用途と図面の機能を読んで区別する必要がある。5
非円形の壁とブライドル#
ETAのUS20160026152A1は、2014年7月22日を優先日とする、非円形の壁と弾性滑りブライドルを組み合わせた方式を記載する。限界以下では外向きの突起が壁の段差へ当たり、限界を超えるとブライドルが径方向へ縮み、段差を越えて次の位置まで動く。摩擦だけでなく形状と弾性を利用して伝達限界を作る構想である。6
この方式は通常の滑り式を完全に否定するものではない。同じ過巻上げ防止でも、円形壁への摩擦、突起と溝、非円形の弾性結合という変種があり、滑りのトルクを材料・潤滑だけに依存させない設計も研究されている。
効果と故障を評価する#
| 状態 | 機能上の意味 |
|---|---|
| 所定限界まで保持し、その後滑る | 十分な巻上げと追加入力の逃がしが成立 |
| 早すぎる滑り | 蓄積エネルギーが不足し、持続時間を短くする可能性 |
| 遅すぎる滑り・滑らない | 過大な張力を入力側や主ゼンマイへ残す可能性 |
| 接合部の外れ | 外端から香箱へ力を伝えられなくなる |
| 壁・蓋との不適切な接触 | 設計した摩擦と出力関係から外れる |
最初の三項は保持力の上限を論じる2、接合部は1、幅と接触条件は2に基づく機能上の整理である。これらを個別時計の症状だけから即座に原因へ結び付けることはできない。持続時間が短い場合も、自動巻き入力、輪列損失、調速器の消費など別の要因を切り分ける必要がある。
年表と採用に関する限界#
| 年月 | 史料で確認できる展開 |
|---|---|
| 1864年7月5日 | PhilippeのUS43464A、厚い外端・鋼輪・満巻きのクリック 3 |
| 1948年12月31日 | Brownの過巻上げ防止クラッチ出願 2 |
| 1952年11月11日 | US2617248A公告、自動巻き時計での比較試験を記載 2 |
| 1967年1月24日 | Haueterの一体滑り端部の優先日 1 |
| 1969年9月9日 | US3465514A公告 1 |
| 2012年6月28日 | 一体ブライドルと電鋳を扱うUS9329571の優先日 5 |
| 2014年7月22日 | 非円形の弾性滑り結合の優先日 6 |
| 2016年1月28日・5月3日 | US20160026152A1公開、US9329571B2公告 5 6 |
| 現代の整備 | Moebiusが香箱壁用の制動グリースを材料と制動性で区別 4 |
Brownは当時の複数の自動巻き時計で試験した結果を記すが、個別のブランドやモデル番号を特定していない。この資料から、特定ブランドが最初に量産採用したと断言することはできない。滑りばねは20世紀後半の特許で既知の自動巻き構造として説明され、現代の整備材料や改良特許にも残る一般技術である一方、初採用作品と完全な普及経路は、特許の記録だけでは確定しない。
参考文献#
- Jean Haueter / Vimetal SA, Mainspring slipping ring for a self-winding timepiece, US3465514A、1969年9月9日。Background、Description、Figs.1–3、claims 1–2。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。
2. Foster H. Brown, Overwind preventer, US2617248A、1952年11月11日。Description、Figs.1–11、トルク曲線と試験の部分。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。
3. Adrien Philippe, Improvement in springs and barrels for time-keepers, US43464A、1864年7月5日。Specification、Figs.1–8。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。
4. Moebius, Greases(公開年記載なし)、8212、8213、8217、9500の製品説明。 公式製品表。閲覧日2026年10月13日。
5. Nivarox-FAR SA, Mainspring for a timepiece, US9329571B2、2016年5月3日。Description、Figs.1–7、電鋳工程。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。
6. ETA SA, Timepiece barrel with improved transmission of force, US20160026152A1、2016年1月28日。Description、claims、非円形内壁と弾性ブライドル。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。