報時用遠心調速器

報時用遠心調速器

報時用遠心調速器は、回転する錘の遠心作用を利用して、時計の打鐘や音楽のテンポを整える装置である。英語では centrifugal governor、フランス語では régulateur centrifuge de sonnerie と呼ぶ。回転が速まると錘が外側へ移り、制動が強くなる。固体どうしの摩擦を使う方式が代表的だが、遠心作用で空気抵抗や磁気制動の強さを変える方式もある。「遠心」は錘を動かす原理、「摩擦」「空気粘性」「磁気」はエネルギーを消費する方法を表し、同じ分類軸ではない。1 2 3

この調速器が決めるのは、時刻を何秒の精度で保つかではなく、音と音の間隔である。計時側のテンプとひげぜんまい、打数を読むラックとスネイル、ハンマーを動かす報時輪列は役割が違う。打数が正しくても速すぎれば数えにくい。音の余韻を聞くためには、ゴングだけでなく、打撃を送り出す速度も制御しなければならない。1 4

ばねの動力を、一定に近いテンポへ変える#

回転数に応じて抵抗を増す#

報時輪列の動力は、ぜんまいに蓄えられている。歯車はハンマーを持ち上げる仕事をし、その輪列の一部が調速器を高速で回す。遠心摩擦式では、錘が外へ出るにつれて接触部の押付け力が増し、輪列の回転を抑える。駆動トルクと抵抗トルクが釣り合う付近で速度が落ち着く。調速器は動力を増幅する装置ではなく、回転を抑えるためにエネルギーを使う。1 5

質量を \( m \)〔kg〕、回転軸から重心までの距離を \( r \)〔m〕、角速度を \( \omega \)〔rad/s〕とすると、円運動に必要な向心力の大きさは \( F=mr\omega^2 \)〔N〕となる。回転する部品と一緒に考えると、これに対応する外向きの遠心作用が錘の移動を説明する。同じ質量・半径なら、角速度を2倍にしたとき、この力の大きさは4倍になる。6

ただし、この力がそのまま摩擦面への押付け力になるとは限らない。レバーの支点、錘の重心、復帰ばね、接触位置によって力の伝わり方が変わる。したがって、錘の重量だけを比べて別の時計の調速性能を順位付けすることはできない。1 5

速度が安定することと、完全に一定であること#

抵抗トルクを \( T_b(\omega) \)、その軸へ届く駆動トルクを \( T_d \) と書けば、平均速度が落ち着く条件は \( T_b(\omega)=T_d \) である。両者の単位はN m。これは特許が説明する釣合いを記号で表したもので、実機の速度曲線を測定した式ではない。5

この関係から、抵抗が速度とともに増すだけでは、駆動トルクが変わったときに速度がまったく変わらないとはいえない。ぜんまいがほどけ、ハンマーを持ち上げる負荷も変化するので、制動をどの速度範囲でどれほど急に増すかが設計課題になる。磁気式の特許US8588034B2は、錘を戻すばねの予荷重と柔らかさを組み合わせ、狭い速度差で大きく錘を移動させる構成を説明する。メーカーの「一定のテンポ」という表現を、速度変動が数学的にゼロという意味へ拡張してはいけない。3

三つの摩擦式に見る構造と製造#

バルベザ=バイヨのレバー式#

シャルル・バルベザ=バイヨの米国特許US433225は、1889年5月9日出願、1890年7月29日付与である。実施例は時・四半時・5分単位を鳴らす報時機構であり、1分刻みのリピーターと同一視できない。図2・3では、回転軸に取り付けた腕が、端に錘を持つ二つのレバーを支える。ばねは錘を内側へ戻し、回転が速まるとレバーの踵が固定受けの窪みの内面へ当たる。そこで生じる摩擦が回転を抑える。1

発明者は、従来の報時用脱進機の作動音を避ける目的を掲げ、静粛さと精密さを述べている。ただし騒音や速度の比較測定値は示されていない。二つの請求項は報時機構の解除・ラック等の組合せを記すため、この公報から遠心調速器全般の独占的な発明優先権まで導くこともできない。1

ポーターのばねを使わないシュー式#

1935年のウィルソン・E・ポーターの米国特許US2020739は、廉価な置時計のアラーム、打刻、チャイムなどを対象にした。固定したカップの内側で、二つの錘が支持腕に沿って滑る。錘の先から突き出たフェルト、革等の摩擦材が内壁へ接する。錘は腕の上で回転もでき、復帰ばねの張力には依存しない。調速特性は錘の重さを変えて調整する。7

製造上の狙いは、微細なばねの調整を避け、板金製の支持部、錘の外殻、差し込む栓、摩擦材を組み合わせることにあった。これは高級腕時計だけを見ていては分からない発展である。ただし公報の量産適性という説明は設計者の主張であり、特定製品の量産開始や販売数を証明する記録とは別である。7

ルビーのローラーで摩擦の場所を変える#

ジャン・ルモンを発明者とするEP1408381A1は、ヌーベル・レマニアが2002年10月7日に出願し、2004年4月14日に公開された。従来の摺動接触が摩耗し、摩擦条件が変化し、摩耗粉も生むことを課題に挙げる。5

図2〜4の実施例では、回転円板上の二つの錘が半径方向へ動き、それぞれ二つのローラーが固定円筒の内面を転がる。制動に必要な摩擦は、とくにローラーとその支持軸の間に生じる。転がるから無抵抗なのではなく、摩擦を受け持つ場所を変えている。公報はローラーに合成ルビー、支持軸に鋼、錘に真鍮や金を例示する。錘下面に局所的な支持面と隙間を設けるのは、潤滑剤で錘が円板へ貼り付く危険を避けるためである。5

この構造は、摩擦をすべて取り去るより、必要な制動と低い摩耗を両立させようとする設計と理解できる。ただし「ほぼ摩耗なし」という説明は公報の評価であり、任意の時計について無注油・無整備を保証するものではない。図示されたグランドソヌリの構成を、資料の指定がない実売モデルへ割り当てることもできない。5

腕時計への実装と、接触を減らす展開#

パテック フィリップのR 27系列#

パテック フィリップの2020年の公式技術資料は、同社の遠心調速器が1989年のCalibre 89と、R 27系を搭載する腕時計Ref.3979・3974に採用されたと記す。遠心作用を腕時計の報時調速に用い、報時用アンカーの作動音を抑える具体例である。これは同社の採用史であり、他社を含めた世界初の腕時計という断定ではない。8

2011年3月の発表資料は、Ref.5073とRef.7000の遠心調速器を明記する。Ref.7000のR 27 PSは厚さ5.05mmで、調速器の覆いには透かしのカラトラバ十字がある。この厚さはムーブメント全体の値であり、調速器単体の寸法ではない。覆いの形や名称だけから、内部が特定の特許と同じ構造だと判断することはできない。9

空気粘性式#

セイコーエプソンの公開公報US20070079657A1は、翼と対向部材の間の流体粘性を利用する調速器を説明する。錘または翼が遠心作用で動き、対向部材と重なる範囲が変わることで抵抗を増す。固体のシューを内壁に擦り付ける方式とは異なる。流体を使うというだけで装置が大きいとは限らず、狭い隙間のせん断抵抗を利用する構成もある。2

実製品では、クレドール7R11の取扱説明書が、報時側のスローガバナーを空気粘性式と明記する。ボタン操作で高速回転し、鳴鐘の後に停止する。名称に「スロー」とあっても、調速器そのものがゆっくり回るという意味ではない。この取扱説明書は実装方式を確認できるが、特許の各実施例と製品内部の全寸法の一致を示す資料ではない。4

磁気式#

ブレゲのClassique La Musicale 7800では、回転する銀の円板が遠心作用で外へ移り、磁石の下へより深く入る。導電体に生じる渦電流による抵抗で回転を抑え、低速ではばねが円板を内へ戻す。遠心作用を使いながら、円筒内壁との擦れ接触を避ける例である。磁場の封じ込め、計時側との距離、磁気の影響を受けにくい材料も設計に含まれる。10

同社の紹介ページは年表見出しを2011年とする一方、本文末尾に2010年の導入と記す。したがって成立時期は2010〜2011年頃と捉え、資料内の差を残す。この作品は音楽を演奏する時計であり、通常の時・四半時・分を打ち分けるリピーターと音列が同じなのではない。10

性能を判断する際の限界#

観点何を確かめるか一語では判断できないこと
テンポ報時開始から終わりまでの打撃間隔、巻上げ状態による変化「遠心式」だけでは速度変動の大きさは分からない
作動音ゴングの音と、歯車・制動部の背景音を分ける「サイレント」は測定上の完全無音とは限らない
接触と摩耗擦れる面、ローラーの軸、摩擦材、潤滑状態転動式でも軸摩擦はあり、すべてが非接触ではない
寸法と調整錘、ばね、接触位置、増速輪列、収容空間ムーブメント全体の厚さは調速器単体の厚さではない
動力香箱のトルク、ハンマー負荷、制動が消費するエネルギー非接触制動でもエネルギー消費がゼロになるわけではない

これらは各公報と実装資料を比較するための観点である。異なる方式を同じ時計・同じトルク・同じ測定距離で試験した数値を示すものではない。2 3 5 9

遠心調速器の意義は、報時機構の情報を、聞き取れる時間の流れへ変えるところにある。錘が動くだけでは制御は完結しない。どこで抵抗を生み、どの範囲の動力変化を受け止め、どれほど小さな音と空間で働かせるか。その組合せが、レバー式、シュー式、ローラー式、空気粘性式、磁気式という異なる設計を生んでいる。1 2 3 5 7

年表#

年月日確認できる出来事記録の範囲
1889年1月8日US433225の原明細書がスイス特許No.334をこの日付で記すスイス原公報そのものとは区別する。1
1889年5月9日/1890年7月29日バルベザ=バイヨの米国出願/付与錘・レバー・ばねと固定内面の摩擦を説明する。1
1933年8月18日/1935年11月12日ポーターの米国出願/付与ばねを用いないシュー式、廉価な時計への適用を企図する。7
1989年パテック フィリップがCalibre 89、Ref.3979・3974に採用2020年のメーカーによる歴史説明。8
2002年10月7日/2004年4月14日EP1408381出願/A1公開ローラーとその軸の摩擦を利用する構造。5
2006年10月5日/2007年4月12日セイコーエプソンの米国出願/A1公開流体粘性式の調速器。最先の優先日は2005年10月6日。2
2010〜2011年頃ブレゲ7800 La Musicaleへの磁気式導入メーカー資料内で2010年・2011年が併存する。10
2011年3月パテック フィリップのRef.5073・7000発表資料遠心調速器を搭載すると明記する。9
2020年11月パテック フィリップが1989年の採用を公式資料で回顧製品発表と後年の歴史説明の時点を分ける。8

関連記事#

参考文献#

  1. Charles Barbezat-Baillot, US433225A, Repeating-watch, 1890年7月29日。原公報の図2・3、明細書pp.2–3、請求項1・2。スイスNo.334は本文中の参照に基づく。

2. Masatoshi Moteki / Osamu Takahashi, Seiko Epson, US20070079657A1, Governor and a power generating device and an apparatus using the governor, 2007年4月12日。背景技術、Disclosure of Invention、First Embodimentの調速器構成。

3. Montres Breguet, US8588034B2, Governor for a timepiece wheel set or strike wheel set, 2013年11月19日。背景技術、予荷重ばねによる錘の移動と制動、図16〜20に関する説明。例示の数値を一般性能値とはしない。

4. クレドール、7R11取扱説明書「ご使用方法」、「ミニッツリピーターの構造について」第7項および安全装置の説明。

5. Jean Remont, Nouvelle Lémania, EP1408381A1, Régulateur centrifuge de sonnerie, notamment dans une pièce d’horlogerie, 2004年4月14日。フランス語原明細書[0001]–[0021]、とくに[0002]・[0004]・[0013]–[0019]、図2〜4。

6. Paul Peter Urone / Roger Hinrichs, College Physics 2e, §6.3 Centripetal Force, OpenStax, 2022年。式6.24。基本的な円運動の関係の確認に用い、時計固有の測定資料とは区別。

7. Wilson E. Porter, New Haven Clock, US2020739A, Centrifugal friction governor for clock-trains, etc., 1935年11月12日。明細書、図1〜5、請求項1・2。

8. Patek Philippe, Grande Sonnerie Ref.6301P — Press Release, 2020年11月、p.2「The renaissance of minute repeaters」、p.9の年表。

9. Patek Philippe, Six new Grand Complications make one exceptional year, 2011年3月、pp.2–3、Ref.5073・Ref.7000の説明。URLのru配下に置かれているが本文は英語。

10. Breguet, Introduction of the magnetic strike governor, 公式年史。見出し2011年、本文末尾2010年。「Silent Constant Rotation」「Confined Magnetism」。

資料の閲覧日:2026年10月19日。