スイスレバー脱進機(Swiss Lever Escapement)

スイスレバー脱進機(Swiss Lever Escapement)

定義と位置づけ#

スイスレバー脱進機は、ガンギ車とテンプの間に二つのパレットを持つアンクルを置き、テンプの半往復ごとに輪列を解放して、同じアンクルを介してテンプに維持エネルギーを与える機構である。英語の Swiss lever escapement、フランス語の échappement à ancre suisse、クラブ歯レバー脱進機という名称は、この系統の特徴をそれぞれ地域、アンクル、ガンギ歯形から表している。セイコーミュージアムは、クラブの頭に似た幅のある歯を、尖った歯を持つイギリスレバー型と区別している。1

「自由脱進機」の自由とは、テンプが振動の大部分で輪列から離れて運動することを指す。ロック解除と衝撃伝達の短い区間ではテンプとアンクルが接触するため、完全に無干渉な振動ではない。ガンギ車からテンプへ直接衝撃を与えるデテント型と区別すると、スイスレバーは間接衝撃型として理解しやすい。2

時計全体の歩度を決める振動子はテンプとひげゼンマイであり、脱進機はその振動を維持するとともに、輪列が進む時刻を制御する。脱進機だけで時計の日差や耐磁性能が決まるわけではない。

成立と初期作品#

Mudgeのレバーとスイス型の違い#

レバー脱進機の基礎は、18世紀イギリスのThomas Mudgeによる。British Museumが公開する実験卓上時計の作品記録は制作年代を1750〜1755年とし、これがMudgeの最初のレバー脱進機を含むと考えられる、と説明する。一方、セイコーミュージアムの技術史解説は発明を1756年頃に置く。これらの年代精度からは、成立を1750年代と説明するのが妥当である。13

Royal Collection TrustのQueen Charlotte’s Lever Watchの記録は、時計の制作を1770年、金ケースのロンドン刻印を1769〜1770年とし、レバー脱進機を組み込んだ最初の懐中時計とみられる、と述べる。所蔵機関がいう「最初」は懐中時計に関するものであり、それ以前の卓上時計を否定する意味には読めない。作品記録に残る発明年1754年も、完成した現代スイス型の発明年を意味しない。4

Mudgeの基本構想と、後に普及したクラブ歯のスイス型は区別すべきである。セイコーミュージアムは、後者では幅を持つ歯面で衝撃を伝え、調整可能なパレット石を備え、尖った歯の型に代わって普及したと説明している。1

19世紀の改良と歴史上の限界#

EPFLの研究者らによる2014年の技術論文は、その歴史概説で、19世紀初めのRichard Pendletonによる引き込みの導入、1830年頃のGeorge Leschotによる改良を挙げている。ただし、この部分は当時の設計記録を直接提示するものではなく、後世の歴史整理である。個々の人物に現代型全体の単独発明を帰する根拠としては慎重に扱う必要がある。5

したがって、レバー原理の成立、引き込みと安全機構の改良、クラブ歯への移行、量産での普及は一連の段階として捉えられる。現代スイス型を初めて採用した時計の個体、最初の量産メーカー、その確定年は、ここで挙げる所蔵記録と技術原典だけでは特定できない。

部品と動作原理#

部品の役割#

部品・面役割
ガンギ車輪列からトルクを受け、歯とパレットの接触で間欠回転する
アンクル軸の周りに往復回転し、ガンギ車とテンプの間を結ぶ
入爪・出爪のパレットガンギ歯を交互に受け止める。停止面と衝撃面の役割を区別する
フォークとテンプの振り石ロック解除時はテンプがアンクルを動かし、衝撃時はアンクルがテンプを押す
バンキングアンクルの二つの停止位置と振れの範囲を定める
剣先と小つばテンプの自由振動中、アンクルが誤って反対側へ移ることを制限する

この構成と従来型の停止位置は、Detraのレバー脱進機改良公報の図1〜6にも説明されている。同公報が提案する図7以降の改良型とは区別した表である。6

半往復の動作順序#

以下は、Rolexの欧州出願公報EP2336832A2の従来技術説明に基づく、一方のパレットから他方へ移る順序である。7

  1. 停止(locking):一つのガンギ歯がパレットの停止面に留まり、輪列の回転を止める。
  2. 解除(unlocking/dégagement):戻ってきたテンプの振り石がフォークを動かす。パレットの停止面から歯を外す際には、引き込みの幾何によってガンギ車がわずかに後退し、テンプが仕事をする。
  3. 衝撃(impulse):解放されたガンギ車の歯がパレットの衝撃面を押し、アンクルとフォークを介してテンプにエネルギーを渡す。スイス型では、歯の稜線がパレット面を滑る段階と、パレットの稜線が歯の衝撃面を滑る段階に分かれる。公報はこれを衝撃A、衝撃Bと呼ぶ。
  4. 落下(drop/chute)と再停止:歯とパレットの衝撃接触が終わり、ガンギ車が次の停止まで進む。他方のパレットの停止面に歯が到達する。
  5. 引き込みによる停止位置への移動:歯からの力がアンクルを次のバンキング側へ導く。テンプはフォークを離れて自由振動し、反対向きの半往復で入爪と出爪の役割が交代する。

衝撃AとBは、同じ半往復内の接触の交代であり、二回の別々のテンプ振動ではない。解除と落下も別の区間である。

引き込みと安全機構#

引き込み(draw/tirage)は、停止面の向きと歯の力によってアンクルをバンキングへ押し付けるトルクが生まれる性質である。アンクルをその位置に保つ安全性と、次の解除に必要な仕事は表裏の関係にある。RichemontのWO2018091619A1は、特に入爪の解除中に引き込み抵抗が増える問題を扱い、停止面の輪郭を変えて引き込み角を一定または減少させる設計を提案する。これは特許で提示された改良であり、一般のスイスレバーすべての構造ではない。8

引き込み角は、接触点での停止面の接線と、アンクル軸から接触点へ引いた線の法線との角度として定義される。アンクルが二つのバンキング間を動く角度、テンプがフォークと関係する角度、落下中のガンギ車の角度と混同してはいけない。角度値を扱うときは、どの軸のどの区間を測るかが必要になる。8

剣先は通常の停止中には小つばとわずかな隙間を持つ。外乱でアンクルが動こうとすると小つばに接触し、誤った側へ移ることを制限する。正常な衝撃区間では小つばの切り欠きが剣先の移動を許す。剣先が触れていること自体を正常な維持動作と解釈してはいけない。接触の長期化は振動を妨げ、衝撃への安全性と効率の両立には限界がある。2

エネルギー、性能、限界#

「効率」と「精度」を分ける#

歯とパレットの滑り、解除の仕事、可動部の加速、停止時の衝突はエネルギー伝達を考える際の要素である。効率改善は同じ動力でテンプに渡るエネルギーを増やす方向に働くが、その割合をそのまま日差の改善率に変換できない。諏訪精工舎のUS3628327Aは、歯と入爪・出爪の衝撃面長さの比を変えて伝達効率を改善する設計を示し、図6・7で主ゼンマイトルク、テンプ振幅、振動数との関係を扱っている。9

基本的な仕事の定義から、脱進機への入力とテンプへの正味出力を考えると、概念的には次のように表せる。

入力仕事 W_in = ∫ τ_e dφ
テンプへの正味仕事 W_bal = ∫ τ_b dθ
伝達効率 η = W_bal / W_in

ここでτ_eはガンギ軸の入力トルク、φはガンギ車角度、τ_bは脱進機がテンプへ及ぼすトルク、θはテンプ角度である。トルクの単位はN·m、角度はrad、仕事はJ、ηは無次元。解除時のテンプから輪列への仕事を負の寄与として含めるため、積分範囲は定常状態の一周期でそろえる。この式は仕事の定義による説明用の整理であり、実機の効率値を予測する数値モデルではない。接触摩擦、弾性、衝突、トルク変動を与えなければ、特定の値は求められない。

数値の読み方#

EP2336832A2は計算モデルによる効率比較と試作品の振幅測定を分けており、絶対効率はガンギ車と秒車の間の伝達効率に依存して予測が難しいと明記している。そこにある特定形状の計算値を、スイスレバーの普遍的効率や市販製品の保証値とすることはできない。7

Patek Philippeは2011年のPulsomaxについてテンプへの伝達エネルギーが15〜20%増すと説明する。この値は同社の改良型についてのメーカー発表で、全スイスレバーへの一般化や独立比較試験の結果ではない。10

保守と外乱#

パレット石の位置、ロックの掛かり、停止位置の関係は、解除と衝撃が成立する余裕を左右する。Detraの出願は、従来型におけるパレット位置の最終調整が性能に強く影響し、手間を要することを課題としている。大量生産に適する基本構成を持っていても、組立後の調整が不要という意味ではない。6

通常の鋼製ガンギ車とルビーパレットでは、接触部を潤滑して滑り摩擦の損失を減らし、エピラムという撥油性の表面処理などで潤滑剤を必要な場所に保持することが重要になる。潤滑剤の移動による接触部の油量不足と他部品への汚染を避ける必要があり、経時的な性能・化学的安定性も保守上の課題となるが、交換・点検の周期は個々の機種の指定に従うべきである。Richemontの潤滑方法公報EP3511780A1は、シリコン製でも期待する性能・信頼性に潤滑が必要になる場合を説明しており、無潤滑の可否は材料名だけで決まらず、設計・表面・接触条件を含めて評価する必要がある。13

磁性を持ちにくいガンギ車やアンクルは、それらの部品への磁気の影響を減らす。しかし、温度による歩度変化、姿勢差、ひげゼンマイへの磁気影響などは振動子を含めた別の検討が必要である。衝撃に対する引き込みと剣先の保護も、あらゆる外乱で歩度が変わらない保証ではない。2

材料、加工、現代の実装#

金属と宝石の組合せ#

クラブ歯とパレット石の接触面は、停止と衝撃を繰り返す。セイコーミュージアムの説明は、宝石のパレットの採用と歯形の変更を摩耗への対応として位置づける。1

現代の製造法には、従来の宝石パレットを使う組合せと、材料・形状を一体で設計する方式がある。EP2336832A2の試作例はLIGA法で製作したニッケルのアンクルとルビーのパレットを用い、ガンギ車をニッケルまたはシリコンで比較する。これは公報の試作条件であり、特定ブランドの全市販ムーブメントの材料仕様を示すものではない。7

シリコンによる材料と形状の変更#

Patek PhilippeのPulsomaxでは、Silinvarのアンクルとガンギ車に対してDRIE(深掘り反応性イオンエッチング)を用いる。同社は低密度、耐食性、非磁性、無潤滑を特徴として説明し、2011年の形状では停止部やフォーク、安全機構、ハブへの組立方法も変更している。したがって、改良を単に「同じ形をシリコンに置き換えた」と説明するのは不十分である。無潤滑という説明の対象はこの脱進機であり、時計全体の全軸受を無潤滑にするという意味ではない。10

同社の公式開発史では、2005年にSilinvarガンギ車を年次カレンダーRef.5250へ、2008年にPulsomaxをRef.5450へ採用したと記録する。この「最初」は同社の開発史の文脈であり、全メーカーを含めた世界初の採用証明には使えない。11

ニッケル・リンと継続的な使用#

Rolexの現行Deepsea公式資料は、Calibre 3235にニッケル・リン製Chronergy脱進機を搭載すると明記している。材料の耐磁性と幾何の改良を組み合わせた実装例である。脱進機の効率だけで約70時間の持続時間を説明せず、同資料が挙げる香箱構造も考慮する必要がある。12

スイスレバーは、初期レバーの原理を保持しながら、歯面・パレット・引き込み・安全機構・材料・製造法に改良を重ねる技術系統として、調査時点でも実製品に使われている。別方式の脱進機が登場したことと、この系統が使用されなくなったことは同義ではない。

年表#

時期出来事と確度
1750〜1755年British Museumの実験卓上時計の制作年代。Mudgeの最初のレバーを含むと同館は評価する。3
1750年代レバー原理の成立。Royal Collection Trustは1754年、セイコーミュージアムは1756年頃と説明する。14
1769〜1770年/1770年Queen Charlotte’s Lever Watchのケース刻印/作品記録の制作年。初期の懐中時計採用例。4
19世紀初め〜1830年頃引き込みと耐衝撃性の改良。EPFL論文がPendleton、Leschotの役割を整理する。単一の発明日にはまとめられない。5
1969年4月〜1971年12月諏訪精工舎の衝撃面比率による効率改良。日本優先日1969年4月14日、米国出願1970年4月6日、米国特許公表1971年12月21日。9
2005年/2008年Patek PhilippeのSilinvarガンギ車/Pulsomaxの製品採用。11
2009年12月〜2011年6月RolexのEP2336832A2。優先日2009年12月21日、欧州出願2010年11月12日、公開2011年6月22日。衝撃面の分担を変更する提案。7
2011年4月Patek PhilippeがPulsomaxの次段階を発表。10
2012年11月〜2015年10月Detraの位置調整を減らすレバー改良。優先日2012年11月26日、出願2013年11月14日、米国公開2015年10月22日。6
2016年11月〜2018年5月Richemontの引き込み最適化。優先日2016年11月17日、PCT出願2017年11月16日、国際公開2018年5月24日。8
2026年10月確認Rolex Deepseaの現行公式資料でCalibre 3235のChronergy採用を確認。確認日は採用開始日ではない。12

特許の優先日、出願日、公開日は製品の発売日と区別して記載した。同じ発明の国別公報は新しい発明として重複計上していない。

調査上の限界#

Mudgeの初期レバーと現代スイス型の間には複数の改良段階があり、「スイスレバーの発明者」を一人・一年に限定する説明には資料上の限界がある。初のスイス型作品、初量産の個体とメーカーは未確定である。現代改良については、特許が示す提案・計算・試作と、公式製品資料が示す採用を区別した。メーカーの効率改善値を、独立した性能保証や全機械式時計の普遍的値としては扱っていない。

参考文献#

以下の閲覧日はすべて2026年10月6日。図版は転載していない。

  1. セイコーミュージアム銀座, The lever escapement that led to modern developments, 公開年記載なし。「The revolutionary invention applied to modern club tooth escapements」およびMudgeの節。https://museum.seiko.co.jp/en/knowledge/MechanicalTimepieces06/

2. Montres Breguet SA, Mechanical timepiece movement with a lever escapement, US10222746B2, 2019年3月5日公表。Description「BACKGROUND OF THE INVENTION」、停止・解除・衝撃・安全および剣先の説明。https://patents.google.com/patent/US10222746B2/en

3. British Museum, Experimental table clock by Thomas Mudge, 作品番号1958,1006.2118、制作1750/1755。所蔵機関提供のGoogle Arts & Culture作品記録。https://artsandculture.google.com/asset/experimental-table-clock-by-thomas-mudge/MwEpoWOzasmXzA?hl=en

4. Royal Collection Trust, Queen Charlotte’s lever watch and pedestal, RCIN 63759、制作1770年。所蔵機関提供のGoogle Arts & Culture作品記録。https://artsandculture.google.com/asset/queen-charlotte-s-lever-watch-and-pedestal-thomas-mudge/4gHGjem90uOq9w

5. Simon Heneinほか(EPFL Instant-Lab), IsoSpring : vers la montre sans échappement, Journée d’Etude SSC 2014, pp.49–58、歴史概説p.51。https://www.epfl.ch/labs/instantlab/wp-content/uploads/2018/10/SSC-2014-Article-IsoSpring.pdf

6. Xuan Mai Tu/Detra SA, Lever Escapement for a Timepiece, US20150301501A1, 2015年10月22日公開。Descriptionおよび従来型の図1〜6。https://patents.google.com/patent/US20150301501

7. Raphaël Cettour-Baron, Alexandre Chiuve/Rolex SA, Échappement à ancre suisse, EP2336832A2, 2011年6月22日公開。段落0001〜0009、0027〜0031、表1・2。https://patentimages.storage.googleapis.com/80/b8/75/6ca37c7155f611/EP2336832A2.pdf

8. Alexis Héraud, Valentin Molina/Richemont International SA, Échappement d’horlogerie à tirage optimisé, WO2018091619A1, 2018年5月24日公開。段落0002〜0014、0028〜0029および図4・5・7。https://patents.google.com/patent/WO2018091619A1/fr

9. Kenji Abe/諏訪精工舎, Clubtooth lever escapement, US3628327A, 1971年12月21日公表。Description、図1・6・7。https://patents.google.com/patent/US3628327A/en

10. Patek Philippe, Patek Philippe Advanced Research: Patek Philippe presents the new GyromaxSi balance in gold and Silinvar, 2011年4月プレスリリース。pp.3–4、6–7のPulsomaxと製造法。https://static.patek.com/pdf/pressreleases/en/2011_PatekPhilippe_Ref_Oscillomax.pdf

11. Patek Philippe, 「パテック フィリップ・アドバンストリサーチ」、公開年記載なし。2005年・2008年の開発年表。https://www.patek.com/ja/マニュファクチュール/革新の伝統/アドバンストリサーチ

12. Rolex, The Rolex Deepsea Models, 現行公式製品資料、公開年記載なし。「CALIBRE 3235」。https://newsroom.rolex.com/watches/oyster-collection/rolex-deepsea

13. Mohamed Gouiderほか/Richemont International SA, Procédé de lubrification d’un échappement, EP3511780A1, 2019年7月17日公開。Description「Domaine technique」の鋼/ルビー、エピラム、シリコン接触の説明、および「Mode de réalisation de l’invention」の経時安定性。https://patents.google.com/patent/EP3511780A1/fr