ヒゲゼンマイの端を設計する意味#
端末曲線(terminal curve、フランス語ではcourbe terminaleまたはcourbe extrême)は、テンプを調速するヒゲゼンマイの端部に与える特別な形状である。ばねの内端はテンプとともに回るヒゲ玉、外端は固定されたヒゲ持に取り付けられる。両端の拘束が巻き全体の変形を乱すため、端部の形を変え、伸縮の中心がテンプ軸から移動することや、軸への横方向の力を抑える。単に固定点へ届かせるための曲げとは、設計の目的が異なる。1
「ブレゲ巻上げヒゲ」「フィリップス曲線」「端末曲線」は同じ範囲の語ではない。巻上げヒゲは外周を上の平面へ持ち上げる構造、フィリップス曲線は理論的条件に基づく曲線群、端末曲線はそのような端部設計を含む広い名称である。円筒状のヒゲゼンマイでは上端と下端に曲線を持てる。平ヒゲの内端にも補正形状を与えられ、現代の微細加工では、同じ平面のまま幅・剛性を変える設計も存在する。1 4 5
成立と理論化#
ブレゲの巻上げヒゲ#
ブレゲ社の年史は、アブラアン=ルイ・ブレゲが1795年に外周を持ち上げて内側へ戻す形を導入したとする。外端へ向かう巻きを通常の平面から離せば、その下にある巻きと干渉せず、固定点を内寄りに置ける。同社はこれを、同心的な伸縮、精度、テンプ軸の摩耗改善と結び付けて説明している。この年はメーカーの歴史的帰属であり、端末形状のすべてについて1795年を唯一の発明日とするものではない。2
端末の作用はブレゲ以後に初めて認識されたのでもない。エドゥアール・フィリップスは1860年の論文の冒頭で、ピエール・ルロワが端の選択によって等時性を得る性質を見いだしたと述べた。実務上知られていた調整を、弾性体とテンプの運動の問題へ置き換えることが、フィリップスの仕事の中心だった。1
フィリップスの1860年論文#
『Mémoire sur le spiral réglant des chronomètres et des montres』は『Journal de mathématiques pures et appliquées』第2系列第5巻、1860年、313–366頁に掲載された。冒頭の注記には1860年5月28日の科学アカデミー委員会報告がある。一方、CNAMの目録には同名研究の1861年の書誌もある。原論文の掲載年と、別の刊行記録の年は区別する必要がある。1 7
論文は、端が固定されたばねをテンプが角度だけ変形させたときの復元モーメントを求め、ばねの重心位置と、軸へ加わる力の成分がその関係に入ることを示す。重心を軸の近くへ保ち、横方向の反力を小さくすることが、振幅によらず同じ時間で往復する等時性の条件につながる。フィリップスは曲線を一種類の外観へ固定せず、条件を満たす形を図式的に求め、変形後の巻きの中心も検証した。1
理論と時計師の異論#
1876年に「Excelsior」名義で刊行された実務書『A Practical Treatise on the Balance Spring』は、フィリップスを理論上の権威と認めながら、曲線を実物へ加工する方法を詳細に扱う。著者は曲線の重心や端の接線条件を重視しすぎることに異論を示し、自身の作図と実走試験を提案した。これはフィリップス理論が誤りだったという確定的な証明ではなく、理想化された条件、固定後の釣合い、修理現場で可能な加工と試験の間に議論があったことを示す史料である。3
機構と力学#
同心的な「呼吸」#
テンプが一方向へ回ると巻きが締まり、逆へ回ると開く。この伸縮を時計師は「呼吸」と呼ぶ。外端を通常の渦巻きの続きのまま固定すると、ばねは固定点に引かれて片側へ寄りやすい。端末の曲率や長さ、固定方向を変えると、端の拘束による変形を巻き全体へ分散できる。1 6
重心が軸から動くと、姿勢の変化で重力の作用が変わるだけでなく、運動時に軸受が受け持つ横力にも関係する。巻きの間隔が乱れ、隣接巻きが接触するほど変形すれば、有効なばねの挙動も急に変わる。現代の端末設計特許も、同心性を軸受摩擦、非線形性、巻き同士の衝突の問題として整理している。5
等時性を説明する模型#
フィリップスの論文318–320頁の復元モーメントと運動方程式を、現代の記号で表した理想模型は次のようになる。1
\[ I\ddot{\theta}+k\theta=0,\qquad T=2\pi\sqrt{\frac{I}{k}} \]Iはテンプの軸まわりの慣性モーメント(kg・m²)、θは平衡位置からの角度(rad)、kは角度に対するばね定数(N・m/rad)、Tは一往復の周期(s)である。復元トルクが角度に比例し、Iとkが一定なら、周期に振幅が現れない。原論文は片道の振動時間を使う箇所があるため、上式では一往復と明記した。
この模型は、脱進機の衝撃、空気抵抗、軸受摩擦、ばねの慣性、重力、温度変化を省略する。端末曲線は主に幾何学と境界条件を整える手段であり、これらの外乱をすべて消す装置ではない。フィリップス自身も343–344頁で、油、脱進機、空気の作用を理論へすべて含められないとし、実際の等時性を得るためには、適切なばね長を選ぶ手段を併用すると述べている。1
構造による違い#
| 方式 | 端部の扱い | 設計・実装上の特徴 |
|---|---|---|
| 円筒ヒゲ | 上下端を曲線にする | 両端と円筒巻きの関係を設計する。高さが必要 |
| ブレゲ巻上げヒゲ | 外周を上へ持ち上げ内側へ戻す | 巻き上げの高さ、平行、下の巻きとの隙間が必要 |
| 内端補正 | ヒゲ玉近くの形を変更 | 内端の拘束を扱う。外端の設計とは別の要素 |
| 平面の剛性補正 | 外周の幅や断面形状を変更 | 高さを抑え、微細加工と数値設計で同心性を調整 |
円筒ヒゲと巻上げヒゲの歴史的な説明は1 3、内端補正とシリコン構造は4、平面の剛性補正は5に基づく。
材料、加工、調整#
金属製端末曲線では、部品を平らに保ったまま端部を曲げ、巻上げ部と本体を平行にし、固定後も自然に所定位置へ収まることが重要になる。1876年の実務書は紙や金属板のゲージ、ピンセット、成形工具、加熱時のばねの戻りと焼戻しへの影響まで扱った。これは当時の鋼ヒゲの工程であり、現代合金やシリコンへ温度・処理方法をそのまま適用する手順ではない。3
製作者Peter Elliot Glombの2018年の実作報告では、Dornblüthの特別注文品用に、既製Nivaroxヒゲへ二段の曲げと端末を加工し、ヒゲ玉とヒゲ持へのピン止め、振動数合わせを行う。ヒゲ持・緩急針の位置に合わせて曲線を作り、平面性と中心位置、同心的な伸縮を確認する。過度な曲げは材質の健全性と歩度を損ねるため、最終的に複数姿勢の動的釣合い試験を行う。端末だけを目標の外観へ曲げれば完成する作業ではない。6
シリコンでは金属のような塑性曲げに頼れない。US8425110B2は、ヒゲ本体・ヒゲ玉と上方の端末を別の一体部品として加工し、支柱と凹部で結合する構造を記載する。DRIEによる輪郭形成や酸化膜、結合部の工程を含む。特許は製造可能な構造を説明する資料であり、列挙された全変種が量産品へ採用された証拠とは異なる。4
性能の評価と限界#
端末曲線の効果は、同心性の観察に加えて、巻上げ後とほどけた状態の異なる振幅、文字盤上・下および垂直姿勢での歩度比較から判断する。平均歩度を合わせることと、振幅が変わったときの歩度差を小さくすることは別の調整である。1876年の実務書は、この二つを区別し、曲線を変更してから戻りが落ち着く時間も考慮して試験するよう述べる。3
現代のEP2687917B1は、静止時の形だけでなく、使用振幅の範囲での固定端反力や重心変位を目的関数とし、ばね断面を数値最適化する方式を記載する。端末の問題は、特定の「美しい曲線」を再現するだけでなく、運動全体を評価する問題へ展開している。5
耐磁性や温度特性は端末形状だけで決まらない。シリコンと酸化膜を組み合わせる熱弾性補償、金属合金の選択、テンプの慣性変化、軸受と脱進機の状態を併せて考える必要がある。よい端末曲線があるという名称だけから、個別時計の精度や耐久性を保証することはできない。4 5
年表#
| 時期 | 確認できる展開 |
|---|---|
| 18世紀 | フィリップスはルロワによる端の選択と等時性の研究を先行する仕事として記す 1 |
| 1795年 | ブレゲ社が巻上げヒゲの成立年とする 2 |
| 1860年5月・9月 | フィリップス論文の委員会報告、数学雑誌への掲載 1 |
| 1861年 | 同名研究のCNAM目録にある刊行記録 7 |
| 1876年 | Excelsiorの実務書が作図・成形・実走調整と理論への異論を詳述 3 |
| 2006年 | ブレゲ社がシリコン製ヒゲ・脱進機を時計へ導入したとする 2 |
| 2008年12月15日 | 二部品を結合するシリコン巻上げヒゲ特許の優先日 4 |
| 2018年4月 | 金属端末の手加工と姿勢調整の製作者報告 6 |
| 2025年5月28日 | 断面・運動範囲を最適化するEP2687917B1の公告 5 |
解釈上の限界#
端末曲線は複数の時代・構造にわたる設計概念なので、単一の特許や「最初の量産時計」を割り当てるのは適切でない。1795年の歴史的帰属、1860年の理論、近年の材料・製造特許はそれぞれ別の段階である。また、フィリップス原論文は円筒ヒゲを重要な模型として扱うため、その条件を任意の平ヒゲへ無条件に適用してはならない。寸法図や試験記録のない時計について、写真の端末の形だけから理論への適合を判定することにも限界がある。
参考文献#
- E. Phillips, Mémoire sur le spiral réglant des chronomètres et des montres, 1860, Journal de mathématiques pures et appliquées, 2e série, 5, pp.313–366。特にpp.313–320、321–347。 NUMDAM公開本文。閲覧日2026年10月13日。
2. Montres Breguet, Invention du « spiral Breguet », 1795年を扱う公式年史(公開年記載なし)。 フランス語本文。閲覧日2026年10月13日。
3. “Excelsior”, A Practical Treatise on the Balance Spring, D. H. Hopkinson, New York, 1876。pp.75–91、§§141–179。 公開スキャン。閲覧日2026年10月13日。
4. Montres Breguet SA, Breguet overcoil balance spring made of silicon-based material, US8425110B2, 2013年4月23日。優先日2008年12月15日。Description、Figs.1–10、claims 1、12、13。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。
5. Hairspring for a timepiece and hairspring design for concentricity, EP2687917B1, 2025年5月28日。Background、Summary、Descriptionの最適化・微細加工部分。 特許本文。閲覧日2026年10月13日。
6. Peter Elliot Glomb, “Making a Balance Complete with Breguet Overcoil”, Horological Times, April 2018, pp.20–26。 AWCI公開PDF。閲覧日2026年10月13日。
7. CNAM / Bibale, Mémoire sur le spiral réglant des chronomètres et des montres / Phillips、1861年の書誌記録。 資料目録。閲覧日2026年10月13日。