TH-Carbonspring(TH-カーボンスプリング)は、タグ・ホイヤーが開発した炭素複合材のヒゲゼンマイである。ヒゲゼンマイとは、テンプという小さな回転振り子を往復させる薄いばねのこと。TH-Carbonspringでは、炭素ナノチューブを微細な型のように成長させ、その間へ炭素を浸透させて、ばねとして働く一体の材料をつくる。ケースに使うフォージドカーボンと、時計の振動周期を決めるこの微小部品は、用途も製法も異なる。1 2
この技術の焦点は、炭素なら何でも優秀なばねになるということではない。形状を精密にそろえること、必要な弾性を与えること、湿気などの環境変化から表面を安定させることを、ひと続きの製造工程として成立させる点にある。
何を変える技術なのか#
機械式時計では、主ゼンマイが輪列を動かし、脱進機がテンプへ小さな力を与えて振動を維持する。ヒゲゼンマイは、回転したテンプを元へ戻す力を受け持つ。したがって、ばねの寸法や弾性の変化は、時間の基準そのものへ入り込む。LVMHの基礎特許も、調速機を「テンプとばねの組合せ」として説明している。2
タグ・ホイヤーが掲げる狙いは、軽量性、非磁性、耐衝撃性である。ただし、ヒゲゼンマイ単体の非磁性は、時計全体のあらゆる部品が磁気の影響を受けないことを意味しない。また、材料の特徴だけで装着時の歩度が決まるわけではない。脱進機、テンプ、組立、調整まで含む評価が必要になる。1
同社は専用のアルミニウム製テンプと金のインサートを組み合わせ、温度補償を行うと説明する。材料を替えたばねだけを従来機へ付け足す発想ではなく、ばねとテンプを一組の振動体として設計している点が重要である。3
「森」を育て、間を埋める#
ナノチューブは巻いた糸ではない#
基礎技術を記すUS12353168B2は、ナノチューブの集合を forest、すなわち「森」と呼ぶ。チューブをばねの渦巻きに沿って寝かせるのではなく、テンプ軸におおむね平行に並べ、面内で曲がる部品を形づくる構成である。特許の説明では、チューブの成長精度を形状形成に利用し、力学特性の主な部分は浸透した母材が担う。この区別により、「強いナノチューブをコイル状に巻けば、そのままばねになる」という理解を避けられる。2
シリコンのウェハーは成長の土台として使われる。完成した部品がシリコン製ヒゲゼンマイなのではない。微細なパターンに沿ってチューブを成長させ、母材を浸透させ、土台から分離するのが特許に示された工程の骨格である。2
CVDと工程の管理#
CVDは、気体原料の化学反応で材料を堆積させる「化学気相成長」の略である。タグ・ホイヤーの2025年の製造解説では、炭化水素ガス、触媒層、高温反応室を用いる。ばねは成形後も目視検査と剛性・健全性の試験を受ける。同社が示す600〜850℃、最大8時間という値は、その解説における工程条件であり、あらゆる世代の炭素ばねに共通する唯一のレシピではない。3
2019年の開発責任者Guy Sémonへの取材では、チューブを成長させた後に隙間を炭素で埋める工程が、既に説明されていた。初期型と2025年型に共通する製造思想はここにある。一方、当時の設備能力や製造時間を、現在の実生産量へ読み替えることはできない。4
表面も時計部品の一部である#
炭素複合材の設計には、内部の形をそろえる問題に加え、外部環境と接する表面の問題がある。2025年6月5日に公開されたWO2025114588A1は、炭素ナノ複合材の表面を化学的に処理し、疎水性、つまり水となじみにくい状態にする方法を扱う。優先日は2023年12月1日、国際出願日は2024年11月29日であり、これらは製品発表日とは別である。5
同公報の請求項1は、ジアゾニウム基の塩またはその前駆体を含む化合物を利用し、炭素表面へ共有結合で分子を結び付ける処理を記す。狙いは、湿気や時計内部の揮発性成分に対する反応性を抑えることである。炭素被覆による前処理も別の態様として記載される。5
これは、関連する表面安定化技術を説明する一次資料である。ただし、特許の各実施例と量産TH-Carbonspringの全工程との一対一の対応は、製品公開資料だけでは確定できない。特許の存在は、試験条件を超えた耐久性や、製品への全請求項の採用を証明するものでもない。
2025年の日本語発表は、2019年に市場へ出した方式が同社の精度基準を満たすに至らず、その後の6年間に耐環境性と長期安定性の改善を続けたと説明する。したがって2019年を単なる構想、2025年を炭素ヒゲゼンマイそのものの初登場とするのは適切でない。1
2025年に採用された二つの時計#
| 時計 | キャリバー | ばね以外の主な特徴 |
|---|---|---|
| モナコ フライバック クロノグラフ TH-Carbonspring | TH20-60 | 自動巻クロノグラフ。計測中にリセットして再始動できるフライバック機能 |
| カレラ クロノグラフ トゥールビヨン エクストリームスポーツ TH-Carbonspring | TH20-61 | 自動巻クロノグラフとトゥールビヨンの組合せ |
両モデルは2025年9月4日のGeneva Watch Daysで発表され、それぞれ50本限定とされた。モナコの39mmケースとカレラの44mmケースにはフォージドカーボンが用いられるが、この外装素材とナノ複合材ばねを同じ部品技術として扱ってはいけない。6 7
両キャリバーはメーカー資料でCOSC認定とされる。これは公表された時計仕様として意味を持つが、ヒゲゼンマイだけの優劣を切り分けた比較実験ではない。トゥールビヨンやクロノグラフも、炭素ばねでなければ成立しない機能ではなく、採用先ムーブメントの構成である。6 7
性能をどう読むか#
TH-Carbonspringは、ばねの材料だけでなく、製造と検査を一体で変えようとする技術である。その一方、公開資料の性能表現には、メーカーの開発目標や製品広報が含まれる。独立した長期使用試験、同一条件でのシリコン・金属ばねとの比較、量産品の歩度分布や歩留まりは、本稿で確認した資料には示されていない。
Sémonの2019年の取材発言と、Antoine Pinへの2025年の取材は、開発当事者の説明を異なる時点から読める資料である。取材記事がメーカー公式発表とは別の媒体に載っていても、当事者の性能主張が独立に実証されたことにはならない。4 8
材料名から「温度変化の影響が完全にゼロ」「永久に壊れない」「時計全体が完全耐磁」と広げることはできない。技術的な意義は、微細形状の成長、炭素の浸透、表面の制御、専用テンプとの組合せを、実際の時計へまとめた点にある。
年表#
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 2016年6月 | ナノチューブの森と母材を用いる基礎特許ファミリーのフランス優先出願 |
| 2019年 | Nanographなどの炭素ヒゲゼンマイが登場。開発責任者が成長・浸透工程を説明 |
| 2023年12月 | 表面処理を扱うWO2025114588A1の優先日 |
| 2024年11月 | 同公報の国際出願 |
| 2025年6月 | 同公報を公開 |
| 2025年9月 | TH-Carbonspringを採用したモナコ、カレラを発表 |
| 2026年1月 | メーカーの研究所紹介でもTH-Carbonspringと2025年のモナコへの採用を紹介 9 |
年表は特許の出願・公開、初期製品、改良型の発表を区別したものであり、全機種への普及や供給本数を示すものではない。
参考文献#
- LVMHウォッチ・ジュエリー ジャパン/タグ・ホイヤー「TH-カーボンスプリング」、2025年9月4日。「ひたむきな努力を続けた10年間」「3つの性能向上」。
2. Guy Sémonほか、LVMH Swiss Manufactures SA、US12353168B2、優先日2016年6月21日。Summary、図3〜5・8〜9に対応する詳細説明、請求項1。特許の態様を量産仕様とは区別した。
3. TAG Heuer「The Carbon Pulse of Precision」、2025年9月4日。専用テンプおよび製造工程。
4. Fondation de la Haute Horlogerie「Inside the TAG Heuer Research Institute」、2019年3月17日。Guy Sémonへの取材、炭素ばねの製法とNanographへの採用。英語本文。
5. Enzo Bomal、Maxime Garnier、LVMH Swiss Manufactures SA、WO2025114588A1(フランス語原文)、2025年6月5日公開。段落0001〜0012、0113〜0115、請求項1・9。表面処理の説明。
6. TAG Heuer「TAG Heuer Monaco: The Carbon Revolution」、2025年9月4日。
7. TAG Heuer「TAG Heuer Carrera : l’avenir du temps, forgé dans le carbone」、2025年9月4日。フランス語、TH20-61と限定数。
8. Serge Maillard「R&D: TAG Heuer foot to the floor」、Europa Star、2025年11月。Antoine Pinへの取材と2019年の安定性に関する説明。
9. TAG Heuer「Precision Through Innovation」、2026年1月19日。
資料確認日:2026年10月22日。