トゥールビヨン

トゥールビヨン

発明者:アブラアン=ルイ・ブレゲ #

トゥールビヨンの発明者は18〜19世紀に活躍した天才時計師アブラアン=ルイ・ブレゲ(1747–1823)です ( アブラアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。ブレゲはスイスのヌーシャテル生まれで、パリで時計工房を開き、「時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称されるほど数々の革新的発明を成し遂げました ( アブラアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。自動巻き時計(ペルペチュエル)やパーペチュアルカレンダー、衝撃吸収装置(パラシュート)、ブレゲひげぜんまい(巻上げ終端曲線)など、時計史に残る技術を次々と生み出しています ( アブラアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。中でも1801年に特許を取得した「トゥールビヨン」機構はブレゲを代表する複雑機構であり、当時の時計技術の最高峰と位置付けられる発明でした ( アブラアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。ブレゲは生涯で35個ほどのトゥールビヨン搭載懐中時計を製作・販売しており、その顧客にはヨーロッパ各国の王侯貴族や著名人が名を連ねました ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。ブレゲの功績は自身の名を冠した高級時計ブランド「ブレゲ」として現在も伝統が受け継がれています ( Abraham-Louis Breguet - Wikipedia)。

発明の経緯(背景と目的) #

18世紀後半当時、懐中時計は姿勢(持ち歩く際の上下方向)の違いにより精度が狂うという技術的課題がありました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。ポケットに収められた懐中時計は長時間ほぼ垂直に固定されるため、重力の影響で歩度(進み遅れ)に偏りが生じ、姿勢差誤差が発生します ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。ブレゲはこの重力による誤差こそが携帯時計の精度向上を阻む大敵であると見抜き、これを補正する機構の開発に取り組みました ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”) ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。ブレゲは数学・物理にも通じており、革命期の動乱で一時スイスへ身を寄せていた1790年代にこのアイデアを着想したとされています ( History of the tourbillon | IN-DEPTH) ( History of the tourbillon | IN-DEPTH)。1795年に息子宛の手紙で新機構の構想を示した記録があり、その5年後の1800年にフランス政府に特許を出願、翌1801年に特許を取得しました ( History of the tourbillon | IN-DEPTH) ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)(特許日は1801年6月26日〈フランス革命暦IX年メシドール7日〉 ( Celebrating 220 Years Of The Tourbillon With The Breguet Classique Tourbillon Extra-Plat Anniversaire 5365 | Watchonista))。発明の名称はフランス語で「旋風」を意味する**「トゥールビヨン・レギュレーター」**と名付けられています ( Celebrating 220 Years Of The Tourbillon With The Breguet Classique Tourbillon Extra-Plat Anniversaire 5365 | Watchonista)。ブレゲがトゥールビヨンを開発した動機は、どの姿勢でも時計が規則正しく動作することを目指し、重力による精度不良を画期的な方法で解決することにありました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。

発明のメカニズムと効果 #

トゥールビヨンは、時計の調速機構(テンプと脱進機)全体をケージ(かご)に収め、そのケージごと一定速度で回転させる仕組みです ( アブラアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座) ( アブラアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。具体的には、テンプ(振り石付きのバランスホイール)、ひげゼンマイ、アンクル(脱進機の錨)、ガンギ車(脱進車)といった重力の影響を特に受けやすい部品一式を丸ごと可動枠に固定し、通常は1分間に1回転する速度で枠を回転させます ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。これにより、重力の影響で特定の姿勢に偏って生じる進み・遅れの誤差が360度回転の中で相殺され、平均化される効果があります ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。ブレゲ自身「重力による異常を相殺し、どのような姿勢でも精度を維持できる」 ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)とその効果を謳っており、実際、垂直姿勢での進み遅れを大幅に低減できることが証明されました ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。またケージの回転によってテンプ軸の軸受けにかかる力点が絶えず変化するため、摩擦が分散し潤滑状態が均一に保たれる利点もあります ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。このようにトゥールビヨンは懐中時計の姿勢差補正に極めて有効な機構であり、クォーツ時計の出現以前までは精度向上策として重宝されました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia) ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。ブレゲの時代、王侯貴族たちはこの新機構に驚嘆し、「あらゆる姿勢で同じ精度を保つ」時計として称賛しました ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。

しかし一方で、トゥールビヨンの効果はあくまで重力による誤差を平均化するものであり、直接的に時計をより高精度にする魔法ではありません ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。現代の分析では、単一軸のトゥールビヨンは静的な姿勢偏差を打ち消すものの、腕時計のように姿勢が刻々と変わる環境では理論上の利点が小さいことが指摘されています ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。実際、後述の通り20世紀中頃にトゥールビヨン付き腕時計が天文台コンクールに出品された際も、姿勢補正範囲の限界から成績は芳しくなく、他の手法(大型テンプや高速振動)の方が有利と判断されました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。それでもトゥールビヨンは精密機械工学の傑作として現在まで高く評価され、時計愛好家の憧れとなっています ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。

発明の背景(当時の時計技術の状況) #

ブレゲがトゥールビヨンを発明した18世紀末から19世紀初頭は、機械式時計の精度向上が科学技術上の大きなテーマでした ( History of the tourbillon | IN-DEPTH) ( History of the tourbillon | IN-DEPTH)。ブレゲの友人ジョン・アーノルドやトーマス・アーンショーらは高精度な航海用クロノメーターを開発し、経度測定問題を解決した時代でもあります。時計技術面では、温度変化による誤差を補正するための温度補償振り子(各種複合テンプ)や、摩擦減少のための新型脱進機(当時はてん輪式や新式レバー脱進機が台頭)が登場しつつありました。ブレゲ自身も1780年代に永久カレンダー自動巻き機構の実用化に成功し、1789年にはナチュラル脱進機(脱進油不要を目指した二重ガンギ車式脱進機)を考案するなど、精度向上とメンテナンス性改善に取り組んでいました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。しかし依然として姿勢差の問題は残り、懐中時計を長時間正確に動かすには職人が一つ一つ姿勢ごとに精調整する必要があったのです。

フランス革命後のフランスでは産業・科学が大きく発展し、1790年代は啓蒙思想と産業革命の波が時計技術にも及んでいました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。ブレゲは革命の混乱期にスイスへ避難するものの、まもなくパリへ戻りナポレオン政権下で新たな顧客層を得て事業を再興します ( History at a Glance: The Story of Breguet - Part 1 :) ( History at a Glance: The Story of Breguet - Part 1 :)。1798年にはナポレオン将軍自身がブレゲの時計を購入するなど、時計技術革新への期待が高まっていました ( History at a Glance: The Story of Breguet - Part 1 :) ( History at a Glance: The Story of Breguet - Part 1 :)。こうした背景の下、ブレゲは重力に打ち克つ新機構としてトゥールビヨンを完成させます。1806年9月、パリの工業製品博覧会において一般公開されたブレゲのトゥールビヨン懐中時計は、「如何なる垂直または斜めの姿勢においても同一の精度を保つ」と紹介され、当時の科学者や技術者たちを驚嘆させました ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。トゥールビヨンの発明は、科学的合理主義に支えられた時代の産物であり、まさに近代精密工学への扉を開いた出来事だったと言えます ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。

当時の技術的背景と発明の影響(18〜19世紀) #

ブレゲのトゥールビヨン発明は、その後の時計業界と技術者に大きな影響を与えました。とはいえ当初は製作の難度が高く、ブレゲとその息子が生涯に完成させたトゥールビヨン時計はわずか数十個に留まりました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。1805年に最初の商業販売が行われてからも、実際に販売が軌道に乗るまで6年を要したといいます ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。しかし評判自体は早くから広がり、科学に造詣の深い愛好家や王侯たちは競ってブレゲのトゥールビヨンを注文しました ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。1808〜1814年にかけスペイン・ブルボン家の王族が計3個のトゥールビヨン懐中時計を購入し ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)、1814年にはイギリスの摂政皇太子(のちのジョージ4世)も大型のトゥールビヨン時計を入手しています ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。このように19世紀前半には王族や高官といった限られた層で珍重される存在でした。

一方、19世紀半ば以降になると、ブレゲ以外の時計師たちもトゥールビヨンの研究を進め始めます。特許権が失効した後、スイスやイギリスの時計メーカーが精度コンクール用にトゥールビヨン懐中時計を製作するようになりました。懐中時計の天文台タイムピース競技会では、トゥールビヨン機構を搭載したクロノメーターが好成績を収める例も増え、高精度時計の証として位置づけられていきます。実際、1850年代以降のスイスではパテック・フィリップやジラール・ペルゴなどが競技用トゥールビヨン懐中時計を手掛け、精度記録の更新に貢献しました。またイギリスではデニソンらが独自にトゥールビヨンを製作しています。こうした動きの中で、デンマーク出身の時計師ボーン・ボンニクセンは1892年にイギリスでカラクリ(カルーセル)脱進機の特許を取得しました ( History of the tourbillon | IN-DEPTH)。カルーセルはトゥールビヨンに似た機構でありながら構造を簡略化したもので、テンプと脱進機を回転台に載せつつ、その回転を非常に遅く(約52.5分で1回転)したものです ( History of the tourbillon | IN-DEPTH)。ボンニクセンのカルーセル懐中時計は複数のイギリスメーカー(ニコル&ニールセン社など)で採用され、トゥールビヨンに代わる実用的な高精度機構として一定の地位を築きました ( History of the tourbillon | IN-DEPTH)。このように19世紀末までに重力補正機構はトゥールビヨンとカルーセルという二つの流派に分かれ、少数の高度な職人によって細々と継承されていったのです。

現代への影響(時計産業・精密機械工学) #

20世紀に入ると腕時計時代の到来やクォーツ技術の革命によって、トゥールビヨンは一時下火となります ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia) ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。1930年代、フランスのリップ社が世界初のトゥールビヨン腕時計(試作)を製作しましたが ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)、当時は腕時計への小型実装が困難だったため市販化されませんでした。また1947年にはオメガ社が、翌1948年にはパテック・フィリップ社がトゥールビヨン腕時計ムーブメントを開発し天文台コンクールに出品しましたが、先述の通り姿勢変化の激しい腕時計では有利性が発揮できず、成績は振るいませんでした ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia) ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。このため mid-20世紀には高精度化手段としてテンプ大型化高振動数化(毎時振動数の高速化)が主流となり、トゥールビヨンは研究対象から遠ざかります ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。さらに1960年代末からのクォーツ革命により機械式時計そのものが急速に廃れ、トゥールビヨンは一時歴史の陰に姿を消しました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。

しかし1980年代に入ると機械式時計の復興とともにトゥールビヨンも華々しく復権します ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。1983年、ブレゲブランド(当時ショーメ社傘下)が腕時計でトゥールビヨンを復活させ、以降の機械式高級時計ブームに乗って各メーカーが競ってトゥールビヨン腕時計を発表しました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。当初は「製作できる職人は世界に10人程度」などと言われ、ごく限られた高級メーカーだけの秘技とされましたが ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)、工作機械やCAD技術の進歩により製造の自動化・高精度化が進むと状況は一変しました。2000年代以降、スイスの主要メーカーはもちろん、アジアのメーカーもトゥールビヨン製造に参入し、かつて数千万円した機構が数十万円でも手に入る時代になっています ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。例えば中国・天津のシーガル社はトゥールビヨンムーブメントを量産化し、2005年には日本のケンテックス社が中国製トゥールビヨンを搭載した腕時計を50万円台で販売するに至りました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。一方、技術的洗練も進み、トゥールビヨン搭載腕時計の実際の精度も初期より大幅に向上しています ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。材料面では耐磁・軽量なチタンやシリコン部品が導入され、設計面でも多軸トゥールビヨン(後述)など重力補正効果を高める工夫が凝らされるようになりました。こうした現代の技術革新により、トゥールビヨンは高級機械式時計の象徴として不動の地位を占めると共に、精密加工・設計技術の粋を示す存在として時計以外の精密工学分野からも注目を集めています。実際、制御工学や振動工学の観点からトゥールビヨンを解析する学術研究も行われており ( Gu Xu Professor, Materials Science and Engineering)、200年以上前の機械式発明が現代工学にもインスピレーションを与え続けていることが窺えます。

関連する文献や資料 #

  • ブレゲの特許明細書(1801年)“Régulateur à Tourbillon”(仏語)。1801年6月26日付けでブレゲに与えられた特許文書 ( Celebrating 220 Years Of The Tourbillon With The Breguet Classique Tourbillon Extra-Plat Anniversaire 5365 | Watchonista)。この中でブレゲは「重力による調速機の不均衡をすべて補償する時計」としてトゥールビヨンの原理を説明しており ( Celebrating 220 Years Of The Tourbillon With The Breguet Classique Tourbillon Extra-Plat Anniversaire 5365 | Watchonista)、当時の技術背景を知る一次資料となっている。

  • ジョージ・ダニエルズ『ザ・アート・オブ・ブレゲ』(The Art of Breguet) – 1974年刊行。著名な時計師ジョージ・ダニエルズによるブレゲ研究の名著 ( Celebrating 220 Years Of The Tourbillon With The Breguet Classique Tourbillon Extra-Plat Anniversaire 5365 | Watchonista)。ブレゲの生涯と作品を網羅的に分析したもので、トゥールビヨン開発の経緯や各トゥールビヨン懐中時計の詳細が豊富な図版とともに解説されている。本書はブレゲ研究のバイブルと評され、現代の時計師たちにも教科書的に参照される ( Celebrating 220 Years Of The Tourbillon With The Breguet Classique Tourbillon Extra-Plat Anniversaire 5365 | Watchonista)。

  • Mark Denny「The Tourbillon and How It Works」IEEE Control Systems Magazine, Vol.30, No.3, 2010, pp.19-23. 制御工学の視点からトゥールビヨン機構を解説した論文 ( Watch - Wikipedia)。重力補正の理論や機械的特徴を平易に述べており、機械式時計を工学的に理解するのに役立つ。トゥールビヨンの歴史的背景にも触れており、19世紀初頭の発明が現代のエンジニアリングにどう評価されるかが論じられている。

  • Xu, Gu 他「A study on the precision of mechanical watch movement with Tourbillon」Journal of Sound and Vibration, Vol.330, Issue 16, 2011, pp.4019–4028. 現代の研究者によるトゥールビヨンの精度評価に関する学術論文 ( Gu Xu Professor, Materials Science and Engineering)。トゥールビヨン搭載ムーブメントと非搭載ムーブメントの比較実験や振動解析が行われており、トゥールビヨンの効果を定量的に検証した数少ない文献である。結果としては「姿勢変化の少ない条件では歩度の安定性向上に寄与するが、多軸化しない単一トゥールビヨンでは腕時計での劇的な精度向上は見込めない」といった知見が報告されている。

  • 『時計年鑑』『クロノメトリー研究会資料』 – 19〜20世紀における天文台コンクールやトゥールビヨン搭載時計の記録をまとめた資料群。スイスやフランスで定期刊行された時計年鑑には、ブレゲの特許や当時の博覧会報告、19世紀後半の各社トゥールビヨン製造記録などが掲載されている。また日本語では『世界の腕時計』などの専門誌がトゥールビヨンの技術解説記事を多数発表しており、特にウォッチタイム日本版の「渦巻きのロマン:トゥールビヨン220年史」などは歴史と技術を俯瞰するのに有用である。

  • アルフレッド・ヘルウィグ「空中トゥールビヨン」関連資料 – ドイツ・グラスヒュッテで1920年に考案された「フライング・トゥールビヨン(支えのない片持ち式トゥールビヨン)」に関する文献。ヘルウィグ自身の論文や、グラスヒュッテ・オリジナル社の発行する資料には、従来型との構造比較や開発秘話が収録されている ( Glashütte-Original Senator Tourbillon - Monochrome Watches)。フライング・トゥールビヨンは上部の支柱を省略して鑑賞性を高めた形式で、現代の多くのブランドが採用する設計である。

以上の文献・資料はトゥールビヨンの歴史・技術を深く理解する上で欠かせないものであり、学術的分析から歴史的エピソードまで多角的な情報を提供している。

技術革新:トゥールビヨンの発展と進化 #

トゥールビヨンは発明以来、その構造自体も様々な技術革新を遂げてきました。原初のトゥールビヨンは単一軸で1分間に1回転するものでしたが、ブレゲ自身の製作した初期モデルには4分間で1回転するもの ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)や6分間で1回転するものもありました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。これはケージ回転速度を遅くすることで歯車系への負荷を下げ、精度よりも安定動作を優先した設計です。また初期のトゥールビヨンには様々な脱進機が組み合わされ、ブレゲはナチュラル脱進機やイギリスのロビン脱進機を搭載した実験モデルも製作しています ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。しかしこれらは衝撃に弱いなどの欠点があり、のちには耐久性の高いスイス式レバー脱進機(現在主流の方式)に取って代わられました。

支柱の改良も重要な進化です。1920年、ドイツのアルフレッド・ヘルウィグはトゥールビヨンの上部支えを無くした**「フライング・トゥールビヨン」**を発明しました ( Glashütte-Original Senator Tourbillon - Monochrome Watches) ( Glashütte-Original Senator Tourbillon - Monochrome Watches)。従来はケージを上下二点で支えていたものを、一方だけで懸架(カンチレバー)する構造に変更し、これにより上から見た時にケージの動きを遮る部材がなくなりました ( Glashütte-Original Senator Tourbillon - Monochrome Watches) ( Glashütte-Original Senator Tourbillon - Monochrome Watches)。フライング・トゥールビヨンは構造上非常に高度な工作精度を要しますが、鑑賞性の向上という面で画期的であり、現代の多くの高級時計に採用されています。またヘルウィグ以前にも1904年にイギリスのR.B.ノースが類似の特許を取得しており ( History of the tourbillon | IN-DEPTH)、20世紀初頭には既に「支柱を目立たなくする」工夫が模索されていたことが分かります。

多軸トゥールビヨンは、重力補正効果をさらに高めるため21世紀に登場した革新的な発展形です。2003年、スイスのジャガー・ルクルト社は複数軸で回転する「ジャイロトゥールビヨン」を発表しました。これは直交する2つの軸を中心にトゥールビヨンケージが回転する仕組みで、外側のケージが1分で1回転、内側のケージがそれとは別の周期(数十秒)で回転する複合構造です ( An overall view on the Jaeger Lecoultre Gyrotourbillon 1, 2, 3 and …) ( JLC - Jaeger-LeCoultre Gyrotourbillon 2: A fascinating chronometric …)。複数軸にすることで、従来は補正しきれなかったテンプ平面に対する水平姿勢の誤差も平均化できるメリットがあります。さらに2004年には独立時計師トーマス・プレシェルが世界初の三軸トゥールビヨン(3Dトゥールビヨン)を開発し、その複雑さで注目を集めました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia) ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。三軸トゥールビヨンは3方向に回転軸を持ち、あらゆる空間姿勢でテンプが等速回転する理想的な状態に近づけたものです。もっとも構造が極めて複雑になるため消費エネルギーが大きく、実用よりも機械美の追求としての側面が強い機構と言えます。その他、複数のトゥールビヨンを組み合わせる試みもなされています。例えばグリュベル・フォルセイ社は2004年にダブルトゥールビヨン30°(一つのムーブメント内で軸傾斜角30度のトゥールビヨンを二基連動)を発表し、さらに二組のダブルトゥールビヨンを直結したクアトロ(4重)トゥールビヨンも実現しています。これらは複数のトゥールビヨン同士で誤差を打ち消し合い、より安定した平均歩度を得ようという発想で、現代ならではの精密加工技術が支える野心的な取り組みです。

素材と設計の革新も見逃せません。21世紀にはテンプやケージに軽量で高硬度のチタン合金を用いたり、ヒゲゼンマイに温度特性の優れたシリコンを用いる例が増えています。これにより耐衝撃性・耐磁性が向上し、トゥールビヨンの弱点だった環境変化への耐性が改善しました。また最近ではケージや脱進機をシリコンでモノリシック成形し摩擦を極限まで減らす研究も行われています。設計面でもCADシミュレーションによって重心バランスを最適化し、エネルギー効率を高める工夫が凝らされています。例えばスイスの高級ブランド、ウルベルク社はトゥールビヨンに惑星歯車を組み合わせケージ自体の回転エネルギーを調整する新機構を開発するなど、独自の改良を加えています。さらに一部ブランドではトゥールビヨンとカルーセルの併用といったユニークな試みもあります。ブランパン社は2008年にトゥールビヨンとカルーセルの両方を一つの時計に搭載し、それぞれ別の速度で回転させるモデルを発表しました ( History of the tourbillon | IN-DEPTH)。これは二種類の重力補正機構を組み合わせて相互に補完させるもので、伝統技術へのオマージュと技術的探求心が融合した例と言えます。

このように、トゥールビヨンは発明から現在に至るまで進化を続けるダイナミックな技術です。当初の目的であった精度向上のみならず、現代では機械式時計の芸術性・複雑性を極める分野として発展を遂げ、今なお新たな技術革新の題材となり続けています。

初出の作品(最初のトゥールビヨン搭載時計) #

ブレゲが製作した世界初のトゥールビヨン時計は、1805年に販売されたブレゲ製懐中時計です ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。現存する資料によれば、ブレゲは試作機(No.169、No.282)を経て1805年に顧客向け第1号機を完成させたとされます ( History of the tourbillon | IN-DEPTH) ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。この最初のトゥールビヨン懐中時計はブレゲのナンバー記録では明確でないものの、ブレゲ社の資料によれば1805年10月に引き渡しが行われたと考えられています(※諸説あり) ( Montres Breguet | Patent granted for a completely new type of regulator called the “Tourbillon”)。ブレゲは1806年のパリ工業博に出品するため、同型機を数点製造しており、その中の一つがトゥールビヨン No.1188(1808年販売)です ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。No.1188はスペインのアントニオ・デ・ボルボン王子に納品されたもので、製作に5年を要し、当初は金無垢のギヨシェ文字盤を備えていました(のち1841年にトルコ数字のエナメル盤に交換) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。ケージの回転周期は1分ではなく4分トゥールビヨンを採用していた点が特徴です ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。またトゥールビヨン No.1297(1809年完成・販売)はイギリス国王ジョージ3世が密かに購入した逸品で、こちらも4分回転のケージに稀少なロビン脱進機を組み合わせています ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。ジョージ3世は熱心な時計蒐集家であり、この1297号を自国に持ち帰らせたためイギリスで話題となりました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。さらにトゥールビヨン No.1176はブレゲ初期シリーズの中でも製作に最も時間を要した一つで、1802年に製作開始されながら完成は1809年2月となり、7年近くを費やしています ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。No.1176はナチュラル脱進機(1789年考案)を組み込んだ意欲作で、潤滑不要の脱進機構とトゥールビヨンの組み合わせという野心的試みがなされました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。また秒針表示と任意停止可能なスモールセコンド機構、パワーリザーブ表示まで備え、当時考えられる最高峰の機能を盛り込んでいます ( Montres Breguet | Great success for Breguet antique watches) ( Montres Breguet | Great success for Breguet antique watches)。以上のように、初期のトゥールビヨン搭載作品はいずれも超複雑で製作困難なものであり、完成まで数年を要するのが常でした ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。これらの最初期作品は現在では博物館級の歴史的遺産と見なされており、オークションでは数億円単位の高値で取引されることもあります ( Montres Breguet | Great success for Breguet antique watches) ( Montres Breguet | Great success for Breguet antique watches)。

作品の特徴:初期のトゥールビヨンと現代のトゥールビヨンの違い #

初期のトゥールビヨン(19世紀初頭)現代のトゥールビヨンとでは、その目的と設計思想にいくつかの違いが見られます。

  • 姿勢差補正の目的: 初期のトゥールビヨンは懐中時計の姿勢差補正という実用上の要求に応えるために生まれました ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。ブレゲのトゥールビヨン懐中時計は外見上は通常の懐中時計と変わらず、ダイヤルからはトゥールビヨン機構が見えないように設計されています ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。つまり、重力補正という“中身”の機能に徹したもので、鑑賞より実益が重視されていました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。一方、現代のトゥールビヨン搭載時計(特に腕時計)は、その多くが文字盤側からケージの回転が見えるオープンデザインを採用しています ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。これは機能以上に機構の美しさや複雑さを魅せることに重きが置かれているためで、高級時計におけるトゥールビヨンは実用性より象徴性・装飾性の側面が強くなっています ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。

  • ケージ回転速度: ブレゲの初期トゥールビヨンは必ずしも1分間回転に限らず、上述のように4分や6分回転も存在しました ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine) ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。これは当時の加工精度や脱進機構の制約から生じたバリエーションです。現代ではほとんど全てのトゥールビヨンが標準で1分間に1回転となっています。1分トゥールビヨンは機構を秒針代わりに利用できる(ケージに小秒針を取り付ける)利点もあり、視覚的な動きのリズムとしても心地よいため広く採用されています。加えて、最近では高速回転トゥールビヨンも試みられており、Greubel Forsey社の実験作では1秒で1回転という超高速ケージも発表されています(重力効果の平均化というよりジャイロ効果の研究的側面が強い試みです)。

  • 複雑さと製造法: 初期のトゥールビヨンは一個一個が手作業で調整された一点ものであり、同じ仕様の物はほとんどありませんでした。ブレゲは各作品にそれぞれ異なる改良を加えており、例えば前述のNo.1297は唯一ロビン脱進機を採用するなど、ある意味プロトタイプの集合体でした ( Year Of The Tourbillon: The Story Of Abraham-Louis Breguet, The Man Who Defied Gravity | Swisswatches Magazine)。現代ではトゥールビヨンもシリーズ生産され、同一設計のモデルが数十〜数百本単位で製造されます。CNC旋盤やMEMS技術で微細部品を量産できるため、品質の均一化と歩留まり向上が可能になりました。その結果、初期には非常に高価で限られた顧客のみが入手できたトゥールビヨン時計が、現在では中堅ブランドや一部新興メーカーから比較的入手しやすい価格帯でも提供されるようになっています ( トゥールビヨン (時計) - Wikipedia)。もっとも最高級ブランドの手仕上げ品は依然高価ですが、それでも昔に比べれば製造の再現性・信頼性が飛躍的に向上している点は大きな違いです。

  • 多軸化・新機構: 初期は全て単軸トゥールビヨンでしたが、現代では上述のように複数軸や複数個を組み合わせたトゥールビヨンも登場しています。これは現代の素材・計算技術があって初めて成立したもので、ブレゲの時代には想像し得なかった複雑さです。例えばジャガー・ルクルトのGyrotourbillon(2004年)は二軸回転によってブレゲの理想(あらゆる姿勢で等時性を保つ)の究極形に挑戦したモデルであり、当時「ブレゲ本人が見たら驚くだろう」と評されました。またトーマス・プレシェルの三軸モデルは「時計というよりプラネタリウムのようだ」として話題を呼びました。このように現代のトゥールビヨンはより複雑な動きを追求する方向に進化しており、初期のシンプルさとは趣を異にしています。

以上のように、初期と現代のトゥールビヨンには目的・設計・技術の各面で相違がありますが、いずれも「重力と戦い時計の精度を高める」という根幹の理念は共通しています。ブレゲの時代に萌芽したその理念は形を変えつつ継承され、現代でもなお時計技術者たちを魅了し挑戦を促し続けているのです。

年表 #