時計の潤滑と金属表面処理

時計の潤滑と金属表面処理

摩擦を制御する技術#

機械式時計の潤滑は、接触して相対運動する部品の摩擦と摩耗を制御し、ゼンマイから振動子へ届くエネルギーを保つ技術である。英語では watch lubrication、フランス語では lubrification horlogère という。時計には高速・低荷重の軸受、荷重の高い香箱、断続的に滑る脱進機などがあり、一種類の油をすべての場所に使うのではない。潤滑油の化学組成だけでなく、接触面の材料、表面の状態、量、温度や湿度を組み合わせて考える。12

表面処理には異なる目的がある。油の広がりを抑えるエピラムは、油を必要な場所に留める薄い膜である。硬質膜や固体潤滑膜は接触面の摩耗や摩擦を制御するために使われる。いずれも機械全体を自動的に無給油にする処理ではない。13

接触面で何が起きるか#

油膜と摩擦#

油は二つの面の間に入り、直接接触や摩耗を減らす。膜が十分厚い流体潤滑、表面の突起が一部接触する混合潤滑、表面や添加剤の性質が支配的になる境界潤滑に一般に分類される。時計では部位と運動条件ごとに検討する。速度、粘度、荷重は膜の形成に関係するが、同じ時計の中でも運動は一定ではない。脱進機の歯と爪石の接触では、形状と接触中に変わる速度も考える必要がある。24

粘度が高ければ必ず良いわけではない。油が流れにくすぎると小さな力で動く部品の抵抗となる。油の保持には粘度だけでなく、濡れ、形状、油量なども関わる。グリースは基油に増ちょう剤などを加えたもので、油と性質が異なる。添加剤や接触する材料との相性も選択に関わる。2

場所ごとの仕事#

輪列の穴石を断面で示す模式図。赤い穴石と黒い軸の間に黄色い油がある

図1:時計の穴石、軸と油溜まりの模式図。作者:Chetvorno。出典・権利根拠:Wikimedia Commonsのファイル説明。Public Domain(作者による世界的な権利放棄、放棄が成立しない地域では無条件の利用許諾)。変更なし。

接触部潤滑の課題
テンプや輪列の軸受小さな軸と石の接触を保護しつつ、抵抗と油の移動を抑える。速度や荷重によって油を選ぶ
スイスレバーのガンギ歯と爪石停止と滑りを繰り返す接触で、少量の潤滑剤を接触域に保つ
香箱とゼンマイ巻かれたゼンマイの層や香箱壁の接触に伴う摩擦と摩耗を抑え、力の伝達を安定させる
巻上げ・時刻合わせ断続的に動く歯やレバーの接触を保護する。用途によってグリースを用いる

1979年の時計師Joseph Rugoleの実務記事は、香箱内でゼンマイの層同士や壁が接触すると解ける力が不均一になることを説明し、適切な潤滑を勧めている。同記事の銘柄指定は当時の実務例であり、現行の全機種に適用する指示ではない。米国時計師協会の一般的な油表にも、速度や荷重、接触部ごとに異なる潤滑剤が示されている。実際の保守では各ムーブメントの指定に従う。56

油を留める表面:エピラム#

洗浄された金属面では油滴が広がり、摩擦部に残る量が減り得る。エピラム(epilame)は面の濡れ方を変え、油の不必要な広がりを抑える表面処理の総称である。油そのものではなく、油と接触面を組み合わせて機能する。接触角は液体・固体・周囲の界面の関係を示す一つの指標だが、角度だけで実際の時計内の耐久性を保証することはできない。3

Rolexの公開特許は、1930年にPaul Woogがステアリン酸を基にした移動防止剤を開発し、1970年代にフッ素系高分子製品が導入されたと記す。一方、時計師Bernhard Stoeberの2009年の歴史解説はWoogの処理を1925年に置く。年代には資料間の違いがある。8特許は別の材料について、金、研磨鋼、ルビーなどを処理し、油滴の広がりや洗浄後の性質を試験した例も示す。これは特許文献に記された提案と実験であり、特定の市販時計での採用や全条件での性能を示すものではない。3

油の保持にはトレードオフもある。Laboratoire Duboisの2008年報告は、油が短期間で見えなくなる原因として蒸発だけでなく、薄く広がることや運動・衝撃による微小な飛散を挙げる。同報告は、エピラム面では油の付着が弱まるため飛散しやすくなる場合も指摘する。表面処理と油の位置・量は一体で設計する必要がある。1

硬質膜と固体潤滑#

油を保持する膜とは別に、摩擦面そのものを改質する方法がある。表面の硬化や硬質被膜は摩耗への抵抗を高める目的で研究され、固体潤滑膜は接触面で滑りを助ける。材質の組合せ、膜厚、密着、荷重、湿度により結果が変わるため、硬い膜や低摩擦の材料を一つ挙げるだけでは実用寿命は決まらない。14

スイス時計研究所LSRHでは1960年代半ばから乾燥摩擦を研究し、炭化チタンなどの膜や処理した時計軸を試験した。1974〜1981年のASUAGのGAMA計画では、プラスチック部品、化学ニッケル、硬質膜、二硫化モリブデン(MoS₂)などが検討された。これらは研究対象の例であり、すべてが量産時計に採用されたという意味ではない。1

MoS₂膜の試験では湿度が摩擦と寿命に悪影響を与えたため、添加物や下地を変える研究が行われた。固体潤滑は液体の移動を避ける選択肢だが、湿気や膜の摩耗を含む別の問題を解かなければならない。「油を使わない接触」と「時計全体に潤滑が不要」は異なる。1

香箱の別の例では、EPFLの研究がニッケル下地に薄い金を施した香箱とゼンマイの接触を調べ、実部品の摩耗観察と試験を組み合わせた。金の厚さ、表面形状、滑り方向が膜の働きに関係するという結果は、仕上げが見た目だけでなく機能に関わることを示す。ただし、この結果は研究した構成と試験条件に属し、すべての金めっき香箱に同じ寿命を与えるものではない。4

劣化と保守#

油や添加剤は汚染物、摩耗粉、周辺材料からの揮発物、温湿度などの影響を受ける。赤茶色に見える油には酸化した摩耗粉が含まれる場合も、油や添加剤自体が劣化した場合もある。見た目だけから単一の原因を断定できない。油が面を伝って意図しない場所へ移ることもあり、洗浄、部品検査、指定に沿った再潤滑を組み合わせる。1

点検周期は構造、使用、保管、潤滑剤と製造者の指示によって変わる。固体膜や材料の改良も、時計全体の点検が永久に不要であることを意味しない。設計と保守の目的は摩擦を完全になくすことではなく、各接触部で必要な状態を長く維持することである。

油の歴史#

19世紀末の時計師William T. Lewisは、時計用油の原料として動物油、植物油、鉱油を論じ、それぞれの性質や精製を記録した。当時の記述は、現在の合成油を含む製品の性能表ではなく、時計師が酸化や油の品質に向き合っていたことを示す史料である。20世紀には専門メーカーによる油の研究が進み、材料・用途別の配合が発展した。78

主な発展#

時期確認できる動き
1896年William T. Lewisが時計用潤滑と油をまとめ、当時の材料と実務を記録した。7
1925年または1930年Woogのステアリン酸系移動防止処理を、Stoeberは1925年、Rolex特許は1930年に置く。38
1950年代Stoeberの解説は輪列や耐震装置に合成油が使われるようになった時期とする。8
1960年代後半〜1980年代LSRHで乾燥摩擦、硬質膜、MoS₂膜などが研究された。1
2006年以降Rolexの表面膜に関する出願が優先日を持ち、2009年に欧州公開公報、2017年に登録公報が公開された。3
2020年EPFLの研究は脱進機と香箱を対象に、実部品の観察と摩擦モデルを結び付けた。4

参考文献#

[1] Michel Maillat, “Lubrification sèche et autolubrification, 40 ans de recherches pour l’horlogerie”, Société Suisse de Chronométrie, 2008, pp. 5–9. https://www.laboratoiredubois.ch/fileadmin/documents/prestations/controle_des_materiaux/lubrification_horlogere.pdf (2026年10月31日閲覧)

[2] Jean Frêneほか, “Cours de Lubrification”, UNIT, pp. 22–23、潤滑の分類。 https://www.unit.eu/cours/cours_lubrif.pdf (2026年10月31日閲覧)

[3] Rolex SA, “Ultra-thin water and oil repellent layer, manufacturing method and use in watchmaking as epilame”, EP2084252B1, 優先日2006年12月1日、公開2009年、登録公報2017年、説明・実施例・請求項。 https://patents.google.com/patent/EP2084252B1/en (2026年10月31日閲覧)

[4] Valentine Magnin, EPFL, “Tribological Approach to the Watch Movements”, 博士論文の概要、2020年。 https://graphsearch.epfl.ch/fr/publication/0ee042e8-b9d7-4cb6-b5a7-e612eb00b74f (2026年10月31日閲覧)

[5] Joseph Rugole, “Watch Adjustments”, Horological Times, 1979年11月、pp. 34–37, 58。 https://www.awci.com/wp-content/uploads/ht/1979/1979-11-web.pdf (2026年10月31日閲覧)

[6] American Watchmakers-Clockmakers Institute, “General Lubrication Chart”, 時計部品別の一般的な油表。 https://www.awci.com/wp-content/uploads/2020/05/Lubrication-1B.pdf (2026年10月31日閲覧)

[7] William T. Lewis, Friction, Lubrication and the Lubricants in Horology, 1896. https://www.gutenberg.org/files/35001/35001-h/35001-h.htm (2026年10月31日閲覧)

[8] Bernhard Stoeber, “Epilame and the Modern Watch Service”, Horological Times, 2009年4月、pp. 12–15。 https://www.awci.com/wp-content/uploads/ht/2009/2009-04-web.pdf (2026年10月31日閲覧)