時計油の進化:クジラの油から鉱物油、合成油へ

時計油の進化:クジラの油から鉱物油、合成油へ

小さな時計を支えていた海の油#

機械式時計を動かしているのはゼンマイだが、その力を無駄なく伝えるには、軸や石の接触を助ける油が要る。磨かれた部品と精密な歯車だけでは、長く安定して動く時計はできない。その小さな油の供給源に、かつてクジラ類の顎や頭部があった。1 2

時計油の歴史は、クジラなどから採る動物油、石油を精製する鉱物油、化学反応でつくる合成油をたどると見通しがよくなる。ただし、それぞれには長い併存と配合の歴史がある。また、油の進化は原料の変化だけではない。同じ時計の中でも、速く動く軸受には比較的さらさらした油を、遅く動いて大きな力を受ける部分には粘りのある油を選ぶという、場所ごとの使い分けが発達してきた。1 3

時計に求められる油は難しい#

時計の軸受に使う油は、ごく少量で仕事をする。流れが悪ければ部品の動きを妨げ、広がってしまえば必要な接触部から失われる。寒い日に固まらず、暑い日に薄くなりすぎず、時間がたっても性質を保つことが求められる。

1882年、クロノメーター製作者T. S. and J. D. Negusは、油について独立した節を設けている。軸を自由に動かしながら、その場に留まること。低温で凝固せず、高温で薄くなりすぎないこと。樹脂状に変質したり乾いたりしにくいこと。彼らは必要に応じ、粘い油と薄い油を組み合わせるとも記した。油の流れやすさを用途に合わせる考え方は、すでに19世紀の実務にあった。2

クジラの油にも種類があった#

マッコウクジラだけでは語れない#

「昔の時計には鯨油を使った」と聞くと、大きなマッコウクジラを思い浮かべるかもしれない。しかし時計油として重要だったものには、英語の史料で porpoise jaw oil と呼ばれるイルカ類の顎の油や、blackfish melon oil と呼ばれるゴンドウ類の頭部の油もある。1 4

米国の潤滑油メーカーNyeの社史によれば、ニューベッドフォードの時計師Ezra Kelleyは、こうした顎・頭部の油を1844年から販売した。William F. Nyeもこの分野に参入した。海で得た原料を時計用の潤滑油に仕上げる専門産業が、19世紀の米国に育ったのである。4

マッコウクジラの油とも区別したい。マッコウクジラには脂皮から得る油のほかに頭部の油があり、その蝋状の原料を圧搾すると、液体の油と、ろうそくにも使われた固体の鯨蝋に分けられる。頭部の油、鯨蝋、ほかのクジラ類の顎油を、一つの物質として扱うことはできない。5

1896年のW. T. Lewisの時計潤滑書も、顎油やゴンドウ類の頭部油と、マッコウクジラ油に相当する sperm oil を別項目で論じている。後者には時計での使用例があった一方、含まれる蝋分に伴う温度での粘度変化や、酸化による変質を問題として挙げた。「鯨油ならどれでも時計に最適」という話ではなかった。1

採った油を、そのまま使ったわけではない#

動物由来の時計油にも精製技術があった。Lewisは、顎や頭部の脂肪から油を取り出し、水分を除き、冷やして固まる成分を分離する工程を記録している。低温でも液体として残る部分を選ぶことが、寒さの中で動く時計の助けになった。1

海の動物だけが原料だったわけでもない。牛の脚から得る牛脚油(neatsfoot oil)や骨油、植物由来のオリーブ油も時計潤滑の歴史に登場する。Moebiusの公式沿革は、1855年の創業を、時計師Hermann Moebiusと牛脚油の利用に結び付けている。天然油の時代にも、原料の選別と精製を通じた改良が続いていた。1 6

鉱物油:石油を精製して時計に合わせる#

鉱物油は、主として石油を精製して得る油である。「鉱物」という名でも、粉にした鉱石を時計へ入れる意味ではない。動植物から採る油と区別する呼び方で、炭化水素を主体とする液体を潤滑に利用する。1

Lewisの1896年の本には、すでに鉱物油の製法と時計への利用が論じられている。彼は鉱物油には多くの種類と品質があり、精密な機械に適したものを選ぶ必要があるとした。また、精製した鉱物油を単独で使うだけでなく、動物油と配合する方法にも触れている。19世紀末には、動物油と鉱物油は同じ選択肢の中にあった。1

こうした配合は、その後も続いた。Moebiusの公開製品資料では、Microgliss D系は鉱物油と天然油に添加剤を組み合わせたものと説明される。原料を一つ選んで終わりにせず、安定性、耐圧性、流れやすさを配合で調整するのである。7

合成油:必要な性質を化学からつくる#

20世紀には、時計油の開発に合成化学が加わる。Moebiusの公式沿革が示す節目は1952年である。同社はヌーシャテルのスイス時計研究所LSRHと協力し、全合成油SYNT-A-LUBEを開発した。これは同社の具体的な開発年であり、すべての時計がその年に合成油へ切り替わったという意味ではない。6

合成油では、化学反応でつくった基油の分子構造や配合を選び、求める性質へ近づける。合成基油にも複数の系統があり、酸化への強さ、低温での流動性、荷重への対応、樹脂やゴムとの相性はそれぞれ異なる。8 時計用の一例であるMoebius 9010は、2019年付の技術資料で、エーテルと脂肪族アルコールを基礎とする全合成油と説明され、耐老化性と速く動く部品への適性が挙げられている。9

Nyeも、社史によれば1960年代初めに、イルカ類由来の油や石油系製品から合成流体への移行を始めた。一方、同社の顎油は1970年代まで販売されていた。合成油の開発と天然油の販売には、重なる時期があった。4

1982年のNyeのニュースレターは、従来の時計油を合成油と天然油の配合品へ置き換えたと説明している。合成油の登場後にも、複数の原料の長所を組み合わせる道が残った。10

油をさす場所で、粘度を変える#

さらさらした油と、粘りのある油#

粘度は、液体の流れにくさを表す。時計では、接触する面の速度、荷重、形状や隙間などに応じて、必要な油膜と、油自身が生む抵抗の釣合いを取る。速く動く小さな軸受で粘度を上げすぎると、動きを妨げる抵抗になり得る。一方、ゆっくり動きながら大きな力を受ける場所には、より粘りのある油が選ばれる。米国時計師協会AWCIの一般注油表も、高速・低トルクの箇所と、低速・高トルクの箇所で油を分けている。3

cStとは何を表す単位か#

cStは「センチストークス」と読み、動粘度を表す単位である。1 cStは1 mm²/sに等しく、同じ温度で比べたとき、数値が大きいほど動粘度が高く、流れにくさの大きい油と読める。13

厳密には、粘度と動粘度は区別する。液体の変形に対する抵抗を表す粘度を、その液体の密度で割った値が動粘度である。したがって、動粘度のcStと、粘度に使うcP(センチポアズ)は同じ単位ではなく、換算には密度が必要になる。時計油の製品表では、cStや、それと同じ数値になるmm²/sで動粘度を示すことが多い。7 13 14

メーカーの製品一覧で比べると、Moebius 9010の20℃での動粘度は150 cSt、9020は270 cStである。後者は前者より遅く動き、高い圧力を受ける部分に向くと説明される。この比較では9020のほうが粘りのある油と分かるが、数値が約1.8倍だから摩擦や寿命も1.8倍になるわけではない。比較には温度をそろえ、用途も合わせて読む必要がある。7

注油する場所・接触動きと負担潤滑剤を選ぶ考え方・例
テンプの軸受、ガンギ車など速く動く輪列の軸受小さな力で速く動く抵抗を抑える比較的低粘度の油。9010は20℃で150 cSt
より遅く動き、荷重の大きい回転部速度より接触部の負担が問題になるより高粘度の油。9020は20℃で270 cSt。香箱真などには高粘度の9104を挙げるメーカー資料もある
スイスレバー脱進機の歯と爪石の給力面短い接触で滑り、停止を繰り返す接触域に油膜を保つ専用潤滑剤。例として脱進機用グリース9415
巻上げ・時刻合わせの摺動部断続的に滑り、大きな接触力を受ける場合がある付着性や耐圧性を考慮したグリース。例として9504
自動巻き香箱の内壁とスリッピングブライドル巻き上がると外端のブライドルが滑る必要な摩擦と滑りを制御するブレーキ用グリース

表の用途例はAWCIの一般表とMoebiusの用途資料に基づく。製品名は性質の違いを示す例であり、実際の注油箇所・油量はムーブメントごとの指定によって決まる。3 7 11

輪列の穴石の断面。赤い石のくぼみにある黄色い油が、黒い軸の周囲に留まっている

図1:輪列の穴石と油溜まり。潤滑剤はこのような小さな接触部に留まり、軸の動きを助ける。作者:Chetvorno。出典・権利根拠:Wikimedia Commonsの個別ファイル説明。Public Domain(作者による世界的な権利放棄。放棄が成立しない地域では無条件の利用許諾)。変更なし。

グリースは「もっと粘い油」だけでは説明できない#

グリースは、基油に増ちょう剤などを組み合わせた潤滑剤であり、液体の油と同じ尺度だけでは比較できない。8 例えば9415は、脱進機の潤滑のために開発された、チキソトロピー性をもつ柔らかい合成グリースである。動かしたときと静止させたときの流動の変化も、接触部での働きに関係する。「脱進機には一番粘い油を入れる」という順番では整理できない。12

自動巻き香箱では、さらに目的が異なる。ゼンマイ外端のブライドルを香箱の内壁で適切に滑らせるため、ブレーキ用のグリースを使う。ここでは摩擦を小さくするだけでなく、巻上げを受け止める摩擦を保ち、必要なところで滑る状態をつくる。時計の潤滑は、場所ごとに摩擦を調整する技術でもある。3

合成油でも温度の影響は受ける#

同じ油の粘度も、温度とともに変わる。9010の2019年付技術資料では、動粘度は0℃で625 cSt、20℃で150 cSt、40℃で52 cStである。合成油であっても温度変化を無視できるわけではない。寒さの中で動きを妨げず、温まっても潤滑に必要な状態を維持することは、原料が変わっても残る課題である。9

また、油をその場に留める能力は粘度だけでは決まらない。部品の形状、表面の濡れ方、油量も関わる。油の広がりを抑えるエピラム処理は、その表面側からの工夫である。接触部ごとの仕組みは時計の潤滑と金属表面処理でも扱っている。

主な節目#

時期時計油をめぐる動き
1844年Nye社史によれば、Ezra Kelleyがイルカ類やゴンドウ類の顎・頭部に由来する油の販売を始める。4
1855年牛脚油に着目したHermann MoebiusがH. Moebius und Sohnを創業する。6
1882年Negusがクロノメーター用の顎油と、用途に応じた粘い油・薄い油の配合を記す。2
1896年Lewisが動物油・植物油・鉱物油の製法と時計での用途を論じる。1
1952年MoebiusとLSRHが全合成油SYNT-A-LUBEを開発する。6
1960年代初め〜1970年代Nyeで合成流体への移行が進む一方、顎油の販売も1970年代まで続く。4
1982年Nyeのニュースレターが、従来の時計油に代わる合成油・天然油の配合品を紹介する。10

海で得た脂肪を精製していた時計師や油メーカーは、すでに寒さ、変質、油の広がりに向き合っていた。鉱物油や合成油は、その課題に取り組むための選択肢を増やした。そして時計の中では、速い軸受、力のかかる軸、滑りを繰り返す脱進機に、それぞれ違う性質が求められる。時計油の進化は、原料を探す歴史と、小さな接触部に合う性質をつくる歴史が重なったものである。

参考文献#

[1] William T. Lewis, Friction, Lubrication and the Lubricants in Horology, 1896, 第1章§§2–14、第5章§§64–70。動物油、植物油、鉱物油と配合。当時の評価・工程の記録として参照。Project Gutenberg全文(2026年11月4日閲覧)

[2] T. S. and J. D. Negus, “Rules for the Care and Handling of Chronometers”, Proceedings, 1882年4月、Vol. 8/2/20, “On Oils”。U.S. Naval Institute掲載原文(2026年11月4日閲覧)

[3] American Watchmakers-Clockmakers Institute, “General Lubrication Chart”。速度・トルク・接触部による使い分け、香箱壁のブレーキ用グリース。一般注油表PDF(2026年11月4日閲覧)

[4] Nye Lubricants, “175 years of History”。Kelleyの1844年の販売開始、Nyeの参入、顎油の販売継続と合成流体への移行。メーカー自身による社史。公式社史(2026年11月4日閲覧)

[5] U.S. National Park Service, New Bedford Whaling National Historical Park, “Whale Products”, 2018年8月29日更新。脂皮由来油、マッコウクジラ頭部の原料、油と蝋の分離。国立公園局の解説(2026年11月4日閲覧)

[6] Moebius, “about us”。1855年の創業、1952年のLSRHとの共同開発。公式沿革(2026年11月4日閲覧)

[7] Moebius, “Oils”。9010・9020の20℃における動粘度と用途、Microgliss D系の配合。公式製品一覧(2026年11月4日、検索サービス経由の収録本文を閲覧。直接アクセス時にはSwatch Groupの紹介ページへ転送される場合がある)

[8] Nye Lubricants, “Base Oils”。グリースの構成と、各系統の合成基油の性質・材料適合性。技術解説(2026年11月4日閲覧)

[9] Moebius, “SYNT-A-LUBE 9010: Synthetic oil for high precision micromechanics”, Technical Data, 2019年11月12日。基礎成分、用途、温度別の動粘度。技術資料PDF、同じメーカー資料のHS Walsh掲載版(2026年11月4日閲覧。メーカーのURLは転送される場合がある)

[10] Nye Lubricants, Nye Lubeletter, 1982年1月、p. 2, “New Literature — Watch and Clock Oils”。当時のニュースレターPDF(2026年11月4日閲覧)

[11] Moebius, “Mechanical Watches – Application recommendation”。9010、9415、9104、9501、9504の用途。機械式時計用の用途資料(2026年11月4日、検索サービス経由の収録本文を閲覧。直接アクセス時には転送される場合がある)

[12] Moebius, “SYNTHETIC GREASE 9415: Synthetic grease for high precision mechanics”, Technical Data, 2019年11月12日。脱進機向けのチキソトロピー性合成グリース。技術資料PDF(2026年11月4日、検索サービス経由の収録本文を閲覧。直接アクセス時には転送される場合がある)

[13] National Institute of Standards and Technology, “NIST Guide to the SI, Appendix B.9”, “Viscosity, Dynamic”および“Viscosity, Kinematic”。cStからm²/sへの換算。NISTの単位換算表(2026年11月4日閲覧)

[14] Nye Lubricants, “What You Need to Know About Base Oil Viscosity”。動粘度と粘度・密度の関係。粘度の技術解説(2026年11月4日閲覧)