エジプトにおけるミイラ作りの時代別の特徴とその理由

エジプトにおけるミイラ作りの時代別の特徴とその理由

古代エジプトでは、遺体をミイラ化することで死後の生命を保証しようとしましたが、その宗教的意味や技術、社会的背景は各時代(古王国・中王国・新王国)で変化しています (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。以下、各時代ごとにミイラ作りの理由と特徴を宗教的観念、技術の進歩、社会的背景、その他の要因に分けて詳述します。

古王国時代(紀元前27~22世紀頃)#

宗教的な理由: 古王国時代、王(ファラオ)は神聖視され、生前も死後も太陽神ラーと一体化する存在と考えられました (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。ピラミッド・テキスト(王の墓に刻まれた呪文)には太陽神信仰が色濃く反映されており、王は死後に天空で再生し星となると信じられています。一方、この時代の終わり頃には冥界の神オシリスへの信仰も高まり、王がオシリスと同一視されるようになります (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。ただし古王国末までは、オシリスと一体化できるのは王に限られており、一般人には認められない特権でした (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。一般の死者にとっては太陽と一体化すること(太陽神ラーと合一すること)が重視され、ミイラ作りにも太陽象徴が用いられました(例:赤い布で包むことで太陽の力を表す) (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。このように古王国では王の不滅性の確保がミイラ化の主目的で、死者の魂(カー)が肉体に戻り生を続けるため肉体保存が必要と考えられたのです ()。

技術的な進歩: 古王国初期に、史上初めて人工的なミイラ化技術が導入されたと考えられます (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。第4王朝(クフ王の時代)の王妃墓からは摘出され保存された内臓が見つかり、王族の間で既に内臓摘出・乾燥の技術が発達していたことが判明しています (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。王の遺体には天然の塩(ナトロン)による脱水処理や樹脂の使用など、本格的な防腐処理が施され始めました。一方、文字資料には当時の技術記録は残っていませんが、古王国時代のミイラは石膏で覆い彫像のように成形する処置も行われていたようです (ミイラ - Wikipedia)。また、遺体の顔に布製の仮面(マスク)を被せる習慣も始まっており、死者の魂(カー)が自分の身体を認識できるようにする目的がありました ()。ただしこれら高度な処置は王族限定で、貴族層はそれ以前の伝統的な方法(詰め物や布で形を保つ簡易的な保存)にとどまっていたようです (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。古王国の後半にはピラミッド内部に呪文が刻まれ(ピラミッド・テキスト)、それが後の防腐技術の宗教的指針となりました。

社会的背景: 古王国時代のミイラ作りは王とごく一部のエリート層に限られていました (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。当初、ミイラ加工はファラオや王族のみが享受できるもので、莫大な国家財源が王の墓や葬祭に注がれました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。王は巨大なピラミッドに葬られ、周囲には王妃や高官のマスタバ墳墓が築かれます。これらエリートの墓では生前同様の生活を来世で送るため、多くの副葬品や供物が供えられました。一般庶民は高価な人工ミイラ化を行うことはできず、砂漠の砂に埋葬されることで自然乾燥によるミイラ化が起きる場合もありました (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I) (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I)。実際、先王朝時代~古王国の民衆の遺体は浅い砂地の墓に葬られ、砂漠の熱と乾燥で偶然ミイラ化する例が多く見られます (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I)。しかし富裕層は木棺や石室に遺体を収め始めたため、砂との接触がなくなり遺体が腐敗する問題が生じました (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I)。この**「墓の豪華化による腐敗」への対策が人工的ミイラ技術の発達を促した社会的要因と言えます (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I)。古王国の安定した中央集権体制と経済力があってこそ、高度な防腐処理を王族に施すことが可能でしたが、その一方で庶民との差は大きく、死後の世界も王専用の特権的領域**という色彩が強かったのです (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。

その他の状況: 古王国時代の政治的安定と国家事業(ピラミッド建設など)が、ミイラ作りの発展と密接に関係します。王の埋葬には莫大な資源が投じられ、葬祭を司る神官団が組織されました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。王墓付近には「死者の町」が形成され、神官たちは日々供物を捧げて王の魂を養い、死者が生者に影響を与え続けると信じられていました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。このような社会全体で王の永生を支える体制が敷かれた背景には、王の死=国家の危機という認識と、王を不死化させることが国家安泰につながるとの政治思想がありました。他方、第6王朝末に中央権力が弱体化すると各地のノモス(州)権力が台頭し、第一次中間期に突入します。この混乱期にはミイラの質も統一性を欠き、各地方ごとに簡易な保存が試みられたと考えられます。とはいえ古王国末までに培われた**「肉体なき魂は存続できない」との思想は揺らがず、エジプト人の死生観として定着しました ()。総じて古王国では、王を中心に宗教(太陽信仰とオシリス信仰の萌芽)・技術(初期の人工ミイラ技術)・社会体制(王権神授と国家財政)**が一体となってミイラ作りが行われていたのです。

中王国時代(紀元前21~18世紀頃)#

宗教的な理由: 中王国時代になると、死後の世界観に大きな変化が起こります。第一次中間期の混乱を経て王権が再統一されると、オシリス神信仰が社会全体に広まり、死後は誰もがオシリスのように復活できるという考えが浸透しました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia) (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。第11王朝以降、伝統的に王専用だった冥界信仰が「死後の民主化」とも言われる現象を伴い、一般の人々にも適用され始めます (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。例えばアビュドス(オシリス終焉の地と信じられた聖地)への巡礼や埋葬がブームとなり、王だけでなく庶民もオシリスの復活神話にあやかろうとしました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。実際に、多くの人々が死後自らのミイラをアビュドスへ送ったり、経済的に無理な場合は代用として石碑(ステラ)を奉納したり、自分の墓に小舟を副葬して「冥界でアビュドスへ航海する」ことを願いました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。こうした風習は**「オシリス神の蘇生劇に参加すれば自らも再生できる」との信念によるものです (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。その結果、オシリスは永遠性の象徴として王に代わり崇拝され、身分にかかわらずすべての人に永遠の生命をもたらす神と位置づけられました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。中王国期には冥界の裁き(死後、42柱の神々による審判を受けるという考え)の概念も発達し始め、道徳的に正しい生を送ることが死後の復活に重要と考えられるようになります (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。このように宗教面では死者の書の原型となるコフィン・テキスト(棺に記された呪文)が登場し、来世の平等化が進みました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。中王国時代のミイラ作りは「誰もがオシリスたりうる」という新たな死生観に基づき、王族以外にも魂の再生**を保証するものへとその意味が拡大したのです (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。

技術的な進歩: ミイラ製作技術も中王国で変化と工夫が見られます。第1中間期には遺体の顔に被せるミイラマスクが使用され始め、中王国第12王朝になると人体の形を模した人形棺(人型棺、アンソロポイド棺)が初めて導入されました (ミイラ - Wikipedia) (Coffins of the Late Middle Kingdom)。人型棺は木製で人の顔や身体を形取った内棺で、遺体をより人間らしい姿で守る役割を果たしました。この発明はミイラの顔に施した装飾と併せ、死者の容姿を生前のように保つ試みでもありました ()。一方で防腐処理そのものは古王国から大きな技術革新は少なく、引き続きナトロン乾燥と亜麻布の多重巻きが主流でした。ただし、一部では古王国より洗練された防腐薬(樹脂や香料)の配合が試みられ、副葬品としてシャブティ(ウシャブティ、人型の副葬召使い像)が中王国で初めて登場するなど () ()、埋葬文化が豊かになります。考古学的には、中王国時代の一般人のミイラは数が多くなく保存状態も新王国ほど良好ではありませんが、内臓を収めるカノプス壺の利用が中間層まで普及した点が技術的進歩を示します (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。カノプス壺(蓋に守護神の頭をあしらった臓器容器)は当初王侯のみに使われましたが、中王国では中産階級の墓でも見つかっており、臓器摘出と保存がより広い層で行われたことを意味します (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。ただ興味深いことに、中王国後期には臓器を摘出して別個に保存する処置が一時的に減少したとの指摘もあります (Canopic Jar and Cover of Lady Senebtisi - Brooklyn Museum)。臓器を戻したまま防腐処理をする例も増え、しかし依然として象徴的にカノプス壺を副葬する習慣が残りました (Canopic Jar and Cover of Lady Senebtisi - Brooklyn Museum)。これは宗教的象徴としてのカノプス壺の重要性が続いていたことを示唆します。総じて中王国の技術は見た目の保存(マスク、人型棺)副葬品の充実に進展があり、ミイラ自体の保存法は古王国の手法を踏襲しつつも徐々に改良が重ねられていきました。

社会的背景: 中王国では、ミイラ作りが王族から貴族・一般富裕層へと浸透していきました (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。ファラオのみならず、中央集権を支えた官僚や地方のノモス長(州長)など有力者も、自身の墓に来世のための設備を整え、棺には呪文(コフィン・テキスト)を記しました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。特に第12王朝の繁栄期には、王妃や高官だけでなく中流階級の人々も可能な範囲でミイラ化を行うようになります (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。もっとも、本格的なミイラ処理は高コストであったため、恩恵にあずかれたのは裕福な者のみです ()。実際には安価な簡易処理(例えば内臓を取り出さず体腔に防腐剤を注ぐ程度)で済ませる例もあったと推測されます。ヘロドトス(紀元前5世紀の歴史家)は、エジプト人が身分や費用に応じて上・中・下の三段階のミイラ処理を選択できたことを記録していますが (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)、この習慣はおそらく新王国時代には既に存在していたと考えられます (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。中王国でも同様に、富裕層は完全なミイラ化、庶民は簡易な保存というように階層差がありました。ただし宗教的には前述の通り「死後の平等化」が進んだため、身分の差を越えて誰もが適切な埋葬さえされれば来世で生き続けられるという観念が芽生えました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。このため経済的に可能な限りで死者をミイラ化しようとする動きが広まり、アビュドス巡礼やオシリス祭への参加など、生前に死後へ備える文化が庶民レベルでも見られるようになります (古代エジプトの宗教 - Wikipedia) (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。中王国の社会は、死後世界への関心が王族だけのものではなくなり、葬儀ビジネスの拡大や地方ごとの埋葬習慣の発達をもたらしました。実際、中王国後半には各地の墓から地域色豊かなミイラや棺が発見されており、死者の扱いが社会全体の課題となっていたことがわかります。

その他の状況: 中王国時代の政治・経済は第12王朝に頂点を迎え、ファラオは巨大神殿建設や対外遠征を行い富を蓄えました。この繁栄が葬送文化の発展を下支えし、王室だけでなく有力者たちも手厚い埋葬を受けられる財的基盤を整えました。また中王国では文学作品(『生きる者への教訓』など)に死生観が反映され、「この世で善く生き、葬儀を整えれば死後に正しく裁かれる」という倫理観が醸成されます。第12王朝のファラオ(センウセレト3世など)はオシリス信仰を国家的に再編し、アビュドスでの宗教劇を保護奨励しました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia) (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。こうした政治主導の宗教行事は民衆の参加も得て、宗教的熱狂による社会統合という効果も生んでいます。経済的には、ミイラ作りに必要な亜麻布、生薬、樹脂(没薬やフランキンセンスなど)は国内外から調達され、その交易が盛んになりました。とりわけ香料や樹脂はプントランド(紅海沿岸)遠征などで入手され、これら防腐用品の供給増はミイラ普及を後押ししたでしょう。総合的に見て中王国は宗教的包摂性の拡大技術・物資の充実により、ミイラ作りがエジプト文化の中核として定着した時代と言えます。この基盤の上に、次の新王国でミイラ技術と死後信仰はさらに発展を遂げることになります。

新王国時代(紀元前16~11世紀頃)#

宗教的な理由: 新王国時代はトゥトアンクアメンやラムセス2世などが属する繁栄期で、死生観も一層精緻になりました。オシリス信仰は完全に民衆にまで浸透し、死後は誰もが「故人○○、オシリスと化した者」という形で神々の仲間入りをすると考えられました (Democratization of the Afterlife) (Democratization of the Afterlife)。特に死者の書(パピルスに書かれた呪文集、中王国末~新王国に普及)は冥界での試練を克明に描きます。死者は冥界でオシリスを主席とする法廷に臨み、心臓が真実の羽根と天秤にかけられる**「魂の審判」を受けるとされました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。この「死者の心臓の計量」の場面は多くの墓やパピルスに描かれており、道徳的に正しい者だけがオシリスの元で復活できるという思想を示しています (File:BD Weighing of the Heart.jpg - Wikipedia)。図は『死者の書』の有名な一場面で、アニという書記が死後アヌビス神によって心臓を計量され、トト神が記録している場面です (File:BD Weighing of the Heart.jpg - Wikipedia)。秤が釣り合えば晴れてオシリス神の前に進み、不滅の生命が与えられますが、心が罪で重ければ怪物に魂を食われ永遠の死となると信じられました。このように新王国では生前の行いによる審判オシリスによる救済が宗教的理由の中心となり、ミイラは単なる保存された肉体以上の意味――すなわち魂(バー)と霊(カー)の再統合の場であり、正しく復活するために必要な「器」と見做されました ()。また新王国では太陽信仰とオシリス信仰の融合も見られ、ミイラ化の儀礼で赤い布(太陽の象徴)とオシリスの布を併用し、死者を太陽神ラーとオシリスの双方と結び付けることで、永遠不滅を二重に保証しようとしました (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。この背景には、中王国末にシリア方面から導入されたと考えられる新たな神々・思想(例えばバアル信仰など)も影響した可能性がありますが、基本的にエジプト独自の神学体系内で死後の観念が完結していたとされています (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。総じて新王国の宗教的理由は、普遍化したオシリス信仰高度化した冥界思想**によって、「ミイラ=再生のための必要条件」という理解が社会全体で共有されたことにあります () ()。

技術的な進歩: ミイラ製作技術は新王国時代に飛躍的に向上し、今日伝わるエジプトのミイラ処理法の完成形がこの時代に確立しました (Egyptian Mummies | Smithsonian Institution)。第18王朝期には、内臓摘出のための腹部切開位置が変更されたり、脳を安全に除去する技術が発明されたりしています (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。例えば脳は針金のような鉤で鼻孔からかき出し、頭蓋内を樹脂に浸した亜麻布で詰め物する方法が考案されました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。従来あまり保存されなかった脳の処置が可能になったことで、頭部も腐敗しにくくなります。またアメンホテプ3世(第18王朝)のミイラでは、初めて皮膚下への詰め物(パッキング)が試みられました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。この技術は死後に萎んだ顔や手足をふくらませて、生前のふくよかな姿を再現する試みで、第21王朝(新王国後の第3中間期)までには上流階級の多くで採用されています (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。詰め物は主に口から麻布や土器片を入れて顔貌を整え、義眼を嵌め込み、髪にはかつらを被せ、男性の肌には赤褐色、女性にはクリーム色の顔料で生前の肌艶を模した化粧まで施されました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。さらにミイラ包帯の間には多数の護符や呪文のパピルスが差し込まれ、死者を守る念入りな儀礼が行われました () ()。ツタンカーメン王のミイラからは140点以上の護符が見つかっており、呪術的防護にも細心の注意が払われていたことが分かります () ()。防腐処理としては、ナトロン塩に70日間漬け込む工程が標準化され (ミイラ - Wikipedia)、その後洗浄して樹脂や香油を塗りながら数百メートルにも及ぶ細長い亜麻布を丹念に巻き付けました () ()。指先や足先まで一本一本丁寧に包帯で包み ()、最後に眼を模した護符やホルスの目の紋章を腹部の切開創の上に貼り付け、開口の儀式に備えました () ()。また新王国では複数の棺の重ね合わせが一般的になり、ミイラ自体はミイラケースと呼ばれる内箱に納められ、その外側を華麗な人型棺や石棺が覆いました (Artifacts: Mummy Cases, Coffins, and Sarcophagi - Spurlock Museum)。棺には死者の書の一節や神々の図像が描かれ、死者が無事に再生することを祈念する総合芸術となっています。技術的総括として、新王国期のミイラは史上もっとも保存状態が良好で、18~20王朝の王族のミイラ(例えばツタンカーメン)には3000年以上経た現在でも生前の面影を確認できるほどです (Egyptian Mummies | Smithsonian Institution) (Egyptian Mummies | Smithsonian Institution)。こうした高度な防腐技術の背景には、当時のエジプトが得た豊富な国際交流も寄与しています。新王国時代、帝国はオリエントからヌビアに至る広域を支配し、多様な香料・鉱物・化学材料がもたらされました。エジプト人はそれらを用途に合わせ調合し、防腐剤(ミイラ保存液や香膏)として活用しました。最新の科学分析では、新王国のミイラからピスタチオ樹脂やダマール樹脂、ビチューメン(瀝青)など各地由来の物質が検出されており、当時の職人たちが化学的知識を駆使していたことがわかっています。また、ミイラに施された処置やポーズも標準化され、遺体は仰向けで両腕を胸の上に交差させる王様風の姿勢が採られました(初期には横向きや丸まった姿勢もあったが次第に変化) () ()。このように新王国では保存技術・処置方法が極限まで発達し、エジプト史上もっとも精巧なミイラが数多く作られたのです ()。

社会的背景: 新王国時代にはミイラ作りが社会全層に浸透しました。経済的繁栄により、庶民でも費用に応じたミイラ処置を依頼できるようになり ()、ヘロドトスが伝える「上級・中級・下級の3コース」もこの時代の実情を反映したものでしょう (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。 (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)に示すように最上級コースでは脳や内臓を全て摘出し香料とナトロンで徹底的に防腐し、化粧や装飾まで施します。一方、中級以下では内臓摘出を省略し、防腐油を注入して乾燥させたり、下剤で腸内を洗う程度に留めるなど処理を簡略化しました (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。このように費用に応じた選択肢があったことで、王族以外にも多くの人々がミイラ化を行えるようになりました ()。実際、新王国時代の職人町(デイル・エル=メディーナ)からは、一介の職人でも棺や葬儀にかなりの出費をしていた記録が残っています (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians) (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。労働者が副葬品のパピルスに年収の半分、飾棺に年収以上を費やした例もあり、死後の備えが生活の一大出費となっていたことが窺えます (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。これは裏を返せば、当時の人々がいかに来世を重視していたかを示しています。新王国は対外征服による富の蓄積が庶民層にも波及し、都市では葬祭を専門とする葬儀業者やミイラ職人集団が成立しました。テーベやメンフィスにはミイラ工房があり、遺族はそこへ遺体を運んで希望する加工法を相談しました (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。これは現代の葬儀社にも通じるプロセスで、当時の遺族が価格と内容を選択できた点は特筆されます (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗) (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。一方、王族や大貴族の葬儀は桁違いに豪華で、谷間の王家の墓(キングズ・バレー)に代表されるように、隠された岩窟墓に大量の財宝や副葬品と共にミイラが安置されました。盗難対策として墓所を秘密化したものの、新王国末期には盗掘が横行し、多くのミイラが損壊・散逸しました。しかし王たちのミイラは第21王朝時代に集められて密かに再埋葬されており、おかげで現代に伝わったファラオのミイラもあります。社会的に見ると、新王国は**「死者の集団化」が進んだ時代でもあります。各地に共同墓地やカタコンベが造られ、庶民は個別の立派な墓を持てない代わりに多数のミイラが納められる墓所を利用しました。またこの頃から動物のミイラを奉納する習俗も始まります(後述)。さらに新王国では開口の儀式が王族以外にも完全に普及し (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)、葬儀で司祭がミイラの口や手足に道具で触れて息吹を吹き込み、死者を再生させるという儀礼がすべての階層で行われました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。このように新王国社会では、ミイラ作りとそれに伴う宗教儀礼が王から庶民まで広く共有された文化**となり、エジプト人のアイデンティティの一部となっていたのです。

その他の状況: 新王国の繁栄とその後の変遷は、ミイラ製作にも様々な影響を及ぼしました。新王国後期になると宮廷内でアマルナ宗教改革(アテン神への一神教化)が一時起こりましたが、伝統的ミイラ作り自体は大きくは揺らぎませんでした。ツタンカーメンの復古以降、従来の葬祭は復活し、新たにオシリスと太陽神ラーの同一視(死者を夜の太陽=オシリスと見做し、朝に復活する太陽と重ねる思想)が強調されました (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians)。新王国末の政治混乱(海の民の来襲や王朝交代)によって中央統制が弱まると、ミイラ作りもその最盛期を過ぎたとされます。しかし技術的遺産は後世に継承され、第3中間期・末期王朝時代にもミイラ作りは続きました(※詳細は次節)。新王国を総括すれば、高度な信仰体系と科学的防腐技術が結実し、エジプトにおけるミイラ作りの黄金時代を現出したと言えます。宗教・技術・社会のすべてがミイラに注がれ、その成果は数千年後の今日にまでリアルな形で残っています (Egyptian Mummies | Smithsonian Institution) (Egyptian Mummies | Smithsonian Institution)。

末期王朝時代以降の動向(参考)#

新王国後もエジプト人のミイラ作りへの情熱は衰えず、サイス朝(第26王朝)など末期王朝時代にはミイラ技術の復興と洗練が見られます。特に第26王朝のミイラは保存状態・加工技術が新王国に匹敵するほど優れており、「サイス時代のミイラは最良」と評価する研究者もいます。さらにこの頃、動物のミイラが爆発的に増加しました (ミイラ - Wikipedia)。犬・猫・牛・ワニ・ヒヒ・トキ等、特定の神の化身と見做された動物が大量にミイラ化され、神殿に奉納されています (ミイラ - Wikipedia)。この動物ミイラ信仰は新王国末から兆しがありましたが、特に末期王朝~プトレマイオス朝期に盛んになりました (ミイラ - Wikipedia)。政治的には異民族支配(リビア人、ヌビア人、アッシリア人、ペルシア人、ギリシア人)を受けた時代ですが、エジプト人は伝統文化としてのミイラ作りを守り通し、逆に支配者たちもエジプト風の葬儀を採用する例がありました。プトレマイオス朝ではギリシア文化との融合が進み、ミイラの顔部分にリアルな肖像画(エンカウスティークによる「ミイラ肖像」)を貼り付ける習慣が生まれています (ミイラ - Wikipedia)。これは従来のマスクに代わるもので、個人の容貌を精細に写実した絵画を遺体と共に残すものです。ローマ時代までミイラ作りは続行しましたが、徐々にキリスト教の台頭で異教の葬制と見做され廃れていきました。それでもエジプトでは約3000年間にわたりミイラ作りが連綿と続いたことになり、その間には政治体制や経済状況の変遷を超えて、一貫した死後の人生観が脈打っていたと言えます (Egyptian Mummies | Smithsonian Institution) (Egyptian Mummies | Smithsonian Institution)。

最後に、最新の研究にも触れておきます。近年の考古学的発見により、人工的なミイラ化の起源がこれまで考えられていたより古い可能性が示唆されています。2010年代の分析では、エジプト先史時代(ナカダ期、紀元前4千年紀)の遺体に防腐剤や樹脂を塗った痕跡が見つかり、ミイラ作りの試みが古王国以前から存在したと報告されました (ミイラ - Wikipedia)。例えば世界最古級のミイラは約5300年前(先王朝時代)まで遡る可能性があり、これは乾燥した砂漠に埋葬する際に意図せず自然ミイラ化したものから着想を得て、人為的加工を始めたと考えられます (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I) (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I)。このような新発見は、エジプト人の死者への想いがいかに早い段階から形になっていたかを物語っています。要するに、時代ごとの違いはありながらも**「不滅の生命を信じ、肉体を残す」という根本理念は一貫して古代エジプト文明を貫いていたのです () ()。各時代の宗教・技術・社会的変化は、その普遍理念を追求する手段や対象の拡大に他なりません。古王国では王のみが神と合一しミイラ化されましたが、中王国でその恩恵は貴族へ、ついには新王国で庶民にまで広がりました (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。技術もまた王族のための高度な秘術から始まり、徐々に改良され大衆化していきました (古代エジプトの宗教 - Wikipedia) ()。古代エジプト人にとってミイラとは宗教的情熱と科学的知恵の結晶**であり、それによって死を超克しようとした壮大な試みだったと言えるでしょう。

参考文献・出典: 古代エジプトの宗教・考古学に関する各種文献 (Expedition Magazine | Funerary Beliefs of the Ancient Egyptians) (古代エジプトの宗教 - Wikipedia) (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)および最新の研究論文 (ミイラ - Wikipedia)などを参照し、時代ごとのミイラ作りの背景を考察しました。各時代の具体的事例や技術に関する詳細は、ピラミッド・テキストやコフィン・テキストの翻訳研究、発掘報告書、さらにはヘロドトス『歴史』の記述なども踏まえて解説しています (古代エジプトの宗教 - Wikipedia) (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。以上のように、古王国・中王国・新王国それぞれのミイラ作りには宗教観・技術・社会構造の相違が認められますが、その根底には一貫した「肉体保存による魂の永遠化」の信念が横たわっていることが理解できるでしょう () ()。

【参考図版】ミイラ化の宗教的背景を示す「死者の心臓の計量」の場面(上記参照) (File:BD Weighing of the Heart.jpg - Wikipedia)など。古王国第6王朝のミイラ(エモリー大学所蔵)の保存状態写真や、中王国の人型棺、新王国のミイア像と副葬品の写真も比較検討に用いました。図表として各時代の主な特徴を下表に整理します。

時代宗教的背景技術的特徴社会的適用範囲その他
古王国 (紀元前27~22世紀)太陽信仰中心、王のみオシリス化。来世=王の特権 ([Expedition MagazineFunerary Beliefs of the Ancient Egyptians](https://www.penn.museum/sites/expedition/funerary-beliefs-of-the-ancient-egyptians/#:~:text=The%20identification%20of%20the%20mummy,of%20mummification%20after%20the%20Old))。人工ミイラ技術の導入開始(王のみ)。内臓摘出・ナトロン乾燥 (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。石膏塗布や布マスク使用 ()。王族限定(王と一部王妃・高官)。庶民は自然乾燥頼み (History: 4650–3050 BCE, Mummification, Online Exhibits, Exhibits, Spurlock Museum, U of I)。
中王国 (紀元前21~18世紀)オシリス信仰の普及、死後の民主化 (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。誰もが復活可能との観念。人型棺の登場、ミイラマスク普及 (ミイラ - Wikipedia)。技法は踏襲+小改良。カノプス壺の中流層への普及 (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。王族~富裕層に拡大 (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。庶民も可能な範囲で実施。葬儀ビジネス成立。巡礼・副葬品など葬祭文化隆盛。道徳的死生観形成。第二中間期に一部技術変容。
新王国 (紀元前16~11世紀)冥界の裁き・死者の書の完成 (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。ラーとオシリスの融合信仰 ([Expedition MagazineFunerary Beliefs of the Ancient Egyptians](https://www.penn.museum/sites/expedition/funerary-beliefs-of-the-ancient-egyptians/#:~:text=House%20of%20Life%20,1))。来世=万人のもの。脳除去法発明 (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)、70日標準処理確立 (ミイラ - Wikipedia)。最高度の防腐・整容技術(皮下詰物、義眼、化粧) (古代エジプトの宗教 - Wikipedia)。王族~庶民まで広範。ヘロドトスの3段階処置 (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。専門職人による施術 (ミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い - 家族葬のファミーユ〖Coeurlien〗)。
末期王朝 (紀元前7~1世紀)異民族支配下でも伝統信仰堅持。イシス・セラピスなどと習合も。サイス期に技術復興。ミイラ肖像画の貼付(グレコローマン様式)。富裕エジプト人や支配者層もミイラ化(例:プトレマイオス王族)。庶民は簡易化傾向。動物ミイラの大量奉納 (ミイラ - Wikipedia)。キリスト教化で次第に廃れる。

この表に見るように、各時代ともミイラ作りは宗教・技術・社会の三要素が絡み合った総合的な文化現象でした。それぞれの時代の変化を理解することで、古代エジプト人が「死」と「永遠の生命」に何を求め、いかに工夫を凝らしてきたかが浮かび上がります。それは不変の魂の物語であり、人類史上類を見ない壮大な試みとして現代にも強いメッセージを残しているのです。

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